第二次世界大戦
simple:World_War_II第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、World War II)は、1939年 - 1945年にかけて、世界の主要国が二陣営に分かれて戦争を行なった人類史上二度目の世界大戦のことである。
1939年9月1日(現地時間)のドイツのポーランド侵攻をきっかけとして、のちに、イギリス・フランス・アメリカ・ソビエト連邦などが連合国、ドイツ・イタリア・日本などが枢軸国といった同盟関係を持って主要列強が衝突した。
このうち太平洋における局地戦、すなわち日本がアメリカ・イギリスに対して戦端を開いた1941年12月8日(日本時間)から、日本が無条件降伏することを発表した1945年8月15日までの間の、太平洋地域における日本とアメリカ・イギリスなどとの間の戦争は、一般に太平洋戦争と呼ばれる。
1931年の満州事変から日中戦争いわゆる1945年日本降伏までの十五年戦争など、連合国参戦以前の枢軸国による戦争は、一般には第二次世界大戦(および太平洋戦争)には含まれない。
| Table of contents |
|
2 大戦の発端 3 大戦の経過 4 大戦の結果(ヤルタ体制) 5 大戦による領土の変化及び問題 6 大戦に新たに登場した兵器 7 大戦と民衆 8 外部リンク |
第一次世界大戦によって戦勝国も米国に多額の債務を抱えることとなる。そして、債権国アメリカから始まった世界恐慌はソビエト連邦を除く列強の経済に大きな打撃を与えた。そのために植民地を持つ列強は自国とその植民地との経済圏において排他的な経済措置を施すこととなった。
戦勝国イタリアは経済が悪化し、政情不安に陥っていた。ベニト・ムッソリーニ率いるファシスト党が権力を得て、反対勢力を排斥していくのに長くはかからなかった。
第一次世界大戦の戦勝国、とくにイギリスは、戦争の反動で平和の継続を求めドイツに対しては融和政策を取ることに終始していた。そのために、1935年のヒトラーによる再軍備宣言後、ドイツの軍事力強化に対して強硬措置はとらなかった。1938年にドイツはオーストリアを併合。その前にはイタリアとともに国際連盟を脱退し同盟(ベルリン-ローマ枢軸)関係を結んでいた。
大戦の前夜(ベルサイユ体制)
世界
第一次世界大戦後の秩序はパリ講和会議に結ばれたベルサイユ条約に基づくベルサイユ体制という列強の秩序とアメリカ大統領ウィルソンの理念によってもたらされた民族自決そして国際連盟に求められた。欧州
第一次世界大戦後、ベルサイユ条約によってドイツ(ワイマール共和国)は多額の賠償金負担に苦しんでいた。深刻なインフレに陥り、市民生活が圧迫される中、アドルフ・ヒトラーが人々の支持をつかみ台頭していった。東アジア
日本は満州事変などそれまでの結果として中国領土を占領し、満州国を建国していた。これに不満を持つ中華民国が上海租界を攻撃したことにより1937年に日中戦争が勃発した。それが世界大戦へと広がるのは、以下のような理由がある。
- 日本が、中国との停戦交渉に失敗し、戦争の泥沼にはまっていたこと。
- 日中戦争を打開しようと(陸軍が主になって)結んだ三国同盟が世界を二分したこと。
- 三国同盟を真に受けて海軍が対英米戦争計画を練り上げたこと。
- フランス降伏と三国同盟に伴う日本の仏印進駐などに対抗してアメリカ、イギリス、オランダが鉄や石油などの輸出を禁止していったこと。(ABCD包囲網)
- ドイツのソ連侵攻と、その電撃的な大戦果に幻惑されたこと。
- ノモンハン
- 東アジアの植民地
大戦の発端
1939年のドイツによるポーランド侵攻をきっかけにフランスとイギリスがドイツに宣戦布告、ソビエト連邦もポーランドを東方から侵攻し、ヨーロッパ主要国が戦争状態となった。(ソビエト連邦によるポーランド侵攻についてはフランス・イギリスは宣戦布告には至っていない)。
大戦の経過
欧州・北アフリカ
1939年、ナチスドイツにより東方から、ソビエト連邦より西方から侵略され、ポーランドは降伏(政府はパリに亡命)。フランス・イギリスはドイツに宣戦布告。ソビエト連邦、フィンランドと開戦。
1940年、ドイツ、北欧を占領。西部戦線では長い沈黙の後、フランスを制圧し休戦条約を結んだ。ダンケルク撤退(ダイナモ作戦)においてイギリスに渡った軍は自由フランスとして抗戦を継続。イタリアも正式に参戦。イギリス上陸作戦の前哨戦として始まった対英航空戦(バトル・オブ・ブリテン)が行われる。
1941年、ドイツは、イタリアの支援のために、バルカン半島、北アフリカに侵攻し勢力範囲を広めていった。それまで不可侵条約を結んでいたソ連に対して戦火を開く(独ソ戦)。この年の末に日米が開戦し、アメリカが連合軍として参戦。
1942年の攻勢ブラウ中に起こったスターリングラード攻防戦、北アフリカのエル・アラメインの戦いにおける相次ぐ敗北により、ドイツは攻勢の限界を見ることとなる。イギリス・アメリカ合衆国大西洋憲章発表。
1943年、クルスクを巡る戦いにおいてドイツは持てる予備兵力の大半を使い果たし、東部戦線ではこののち攻勢に廻ることはなかった。この年は連合軍による地中海方面への全面攻勢の年であり、クルスクの戦いの時、連合軍はイタリア領土への上陸作戦を行ったのである。イタリアは連合軍に対して休戦。カサブランカ・カイロ・テヘランにて連合国首脳による会議が行われる。
1944年、連合国軍は欧州戦線の中核であるフランスに対しての大陸反抗作戦オーバーロード(ノルマンディー上陸作戦)を行い、西部戦線が再び構築された。同時期に東部戦線においてソ連軍によりバグラチオン作戦が行われ、この戦いにおいて虚を突かれたドイツ中央軍集団は崩壊し、ソ連軍はドイツ国境付近まで迫ったのである。ドイツ軍は東西から攻勢を受け次第に撤退を余儀なくされる。
1945年、ベルリンを包囲され、追い詰められたヒトラーは1945年4月30日に自殺、5月8日にドイツは無条件降伏し、ヨーロッパでの戦争は終結する。ヤルタ会談・ポツダム会談が行われる。
東アジア
1941年末、真珠湾攻撃、マレー沖海戦に始まり、緒戦においてフィリピン、ジャワ島・スマトラ島・ボルネオ(現カリマンタン)島、マレー半島において優勢に戦局を進めた。その後の方針について陸海軍にて意見が分かれたが、米海軍による帝都空襲により、ミッドウェー攻略が決定される。この際に行われたミッドウェー海戦における敗北により、正規空母44隻を失い、攻勢戦力の大半が失われた。
この後、戦いは島嶼を奪い合う物となり、、特にソロモン群島を巡る戦いにおいて艦艇・飛行機の消耗戦となった。
アメリカが超長距離爆撃機(B-29)を開発している情報を入手し、本土防衛のために必要な地域とその防衛のため、絶対国防圏を設けたが。その最重要地点であったサイパンはマリアナ沖海戦の後、連合軍に占領され、本格的な本土空襲の脅威を受けるようになる。
マッカーサーの威信をかけたフィリピン反抗作戦が行われ、それを阻止するために行われた一連の海戦により連合艦隊は事実上、壊滅する。この戦いにおいて始めて特別攻撃隊が組織される。
連合軍は次に沖縄に戦線を進め、この地を占領した。
そのような状況の中で、なおも将来的な国家、民族の存続を模索しつづけた結果調停が遅れ、ポツダム宣言が提示後も降伏をしなかった。トルーマン大統領はソ連を牽制する目的も込めて史上初の原子爆弾の使用を決定。この原子爆弾投下(リトルボーイ、ファットマン)と、日ソ不可侵条約を結んでいた共産主義国ソ連参戦の衝撃により日本は同年8月14日ポツダム宣言を受諾、翌8月15日の玉音放送をもってポツダム宣言を受諾を表明し、ここに第二次世界大戦は終結した(ソ連はその後樺太・千島を占領)。
大戦の結果(ヤルタ体制)
イタリア、ドイツ、日本が負け、世界で6千万人といわれる犠牲者を出した。広島、長崎で史上初めて原子爆弾が使われた。第一次大戦の戦後処理の反省に基づいて、敗戦国には賠償要求せず国家を再建するためヨーロッパではマーシャルプランが作られ、日本ではマッカーサー元帥による米軍主導の戦後処理が行われた。
その一環として、国際軍事裁判所条例に基づき、ドイツ・日本の戦争犯罪を追及するためニュルンベルク裁判、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開かれた。
この裁判では、連合軍の行為については審理対象となっていないため、戦勝国側が日本に対して戦時中行った国際法違反の民間人大量虐殺(原子爆弾の被害、東京・大阪大空襲等)についての責任追求は行われていない。
この大戦によって枢軸国として戦った3国は自立して自国防衛が可能な国家ではなくなり列強ではなくなった。
連合国はアメリカに習い核兵器の開発・製造を急ぐこととなる。
全体主義国家と自由主義国家の争いは前者が解体されることによって終末を迎えたが、今度は戦争によってそれまで隠されていた共産主義と資本主義との闘争が前面に出てくることになる。ドイツという共通の敵を失ったソ連とアメリカは、その後20世紀末まで半世紀近く冷戦という対立抗争を繰り広げた。
大戦による領土の変化及び問題
ドイツ
東プロイセン・大戦前に併合した地域を失い、国家は東西に分断・独立することとなった。東ドイツにあったベルリンも東西両陣営により分断し管理された(現在では再統一)。
日本
大戦に新たに登場した兵器
電子兵器(レーダー)、ミサイル、ジェット機、核兵器が新たに登場した。電子兵器を除く3つは戦争の後期に登場し、戦局に大きな影響を与えるものではなかったが、電子兵器は戦争初期から登場しその優劣が戦局を大きく左右した。
大戦と民衆
第一次世界大戦に始まった国家総力戦により、それまで以上に戦争とかかわることとなった民衆であるが、第二次世界大戦では航空機の戦略爆撃による被害者としての側面とともに、侵略者へパルチザン・レジスタンスとしてゲリラ的に蜂起し、戦争当事者ともなっていた側面も見逃すことが出来ない。






