国鉄63系電車
第二次世界大戦末期の1944年、戦局も敗色濃くなる中、兵器生産へ人員を動員するための通勤輸送用に、鉄道省により応急的に簡素な構造で量産が開始された通勤電車。
最初に木造車の改造(鋼体化)名義でクハ79形制御車が登場し、追ってモハ63形制御電動車及びサハ78形付随車が新製されたが、終戦に間に合ったのは、わずかにクハ79形8両(25両が改造予定だったが戦局の悪化により中止)、モハ63形14両(全車が付随車代用)、サハ78形8両にすぎなかった。
本格的に量産されるのは、終戦後のことであるが、1950年までの間に実に688両(後述する私鉄割当車を含めると804両)が量産され、戦後復興の一翼を担った。
車両の最大長は、従来車と同じく20メートルとされたが、車体長は19.5メートルに延長し、収容力を増加させるとともに、幅1000ミリの扉が片側4か所に設置された。
満員に詰め込んだラッシュ時の換気に配慮して、屋根には太い煙突状の筒に覆いを被せた形の、グローブベンチレータを装備し、側面の窓は3段に区切られ、中段は固定、下段と上段がそれぞれ開けられるように作られた。
基本的に戦争に勝つまでの間、数年もてば良いという極限の設計で、車端部の形状も工作の簡易化のため単純な切妻構造とされ、雨樋も省略された。また、鋼材の節約のため外板は従来より薄くされ、車体下部の台枠部分の外板も省略されている。
電装品も一部が省略されたり、粗悪な代用品が使用されるなどしており、特に絶縁関係の脆弱さは、後に桜木町事故の原因となるなど問題の多いものであった。
内装においても、通常の車内の内張りが省略され、木造の屋根には骨組みが剥き出しで、ドアエンジンを覆う以外の座席もほとんど設置されないというバラックのような車体で、電動車でありながら、電装部品が不足して付随車扱いで運用に入った車輌も多かった。
しかし、こうした極端に簡易化された構造は、1951年4月24日、桜木町事故を引き起こし、多数の死者を出す原因となった。
この事故の反省から、即座に窓構造を改造するとともに、ドアコックの設置や貫通路の整備により非常時の脱出が可能な構造に緊急に改善するとともに、電装関係も徹底的な体質改善が行なわれて、形式もモハ72形(中間電動車)、モハ73形(制御電動車)に改められ、クハ79形、サハ78形も同様の改造を受けて73系電車に再編された。
また、戦後、運輸省(鉄道軌道統制会。のち鉄道車輌統制会)の統制の下、戦時中の酷使や戦災により使用不能となった私鉄車輌を補う為に、大手私鉄に運輸省標準型電車としてモハ63形を割当供給し、その代わりに中小型車を地方中小私鉄に譲渡(供出)させるという復興政策の一端を担った。
その際、モハ63形電車の割当てを受けたのは、名古屋鉄道、近畿日本鉄道(南海線→現・南海電鉄)、山陽電気鉄道、東武鉄道、東京急行電鉄(小田原線→現・小田急電鉄)で、合計116両が統制会の手を通じて各社に供給された。
そして、このような経緯もあり20m車片側4ドア構造は、その後の国鉄のみならず各鉄道会社の通勤電車の標準形ともなった。






