今川義元
今川義元(いまがわよしもと, 永正16年 - 永禄3年5月19日(ユリウス暦1519年 - 1560年6月12日))は戦国時代の武将、戦国大名。
駿河国の守護大名である今川氏第7代、今川氏親と正室中御門氏(寿桂尼)の間に生まれる。生まれたとき、すでに同母兄で第8代となる氏輝がいたので、4才で仏門に出されて臨済宗に入門し梅岳承芳(ばいがくしょうほう)と称し、教育係につけられた今川一族出身の禅僧太原雪斎とともに京都に上って五山に学ぶ。1536年、兄が急死したため駿河に戻り、異母兄で同じく出家していた玄広恵深との間で家督争いとなるが、雪斎の尽力で勝利。この花倉の乱と呼ばれる家督争いを経て、還俗して今川氏第9代・駿河守護となり、義元と称す。官位は従四位下治部大輔に上る。
家督を継いでまもなく、武田信虎の娘と結婚し、甲斐の武田氏と結ぶ。そのため、かえって旧来の縁戚であった相模の北条氏と仲違いし、北条氏綱・氏康父子と駿河東部で戦うが、その侵入を防ぎきった。
西では、尾張の織田信秀の進出により圧迫を受けた三河の松平氏の帰順を受け、松平広忠の子竹千代(のちの徳川家康)を人質に迎え入れようとするが、織田氏に奪われてしまった。1549年、松平広忠が死ぬと、松平氏の離反を防ぐため織田方の三河安祥城(愛知県安城市)を攻略し、人質交換によって竹千代を奪還する。これにより松平氏の所領とその支配化にあった三河の国人領主を直接支配下に組み入れ、駿河・遠江・三河の三ヶ国にまたがる勢力を築き上げた。
1554年、武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで甲相駿三国同盟を結成し、東の憂いを断つと、1551年の信秀死後動揺する織田氏に揺さぶりをかけ、尾張東部の知多郡・愛知郡に勢力を延ばす。
1560年、大軍を率いて尾張への侵攻を行い、知多郡大高城(名古屋市緑区大高)周辺の諸砦を落とすが、彼自身の率いる本軍は大高城に向かう途上、桶狭間で織田信長の奇襲を受け、戦死した(桶狭間の戦い)。この敗戦により三河で松平氏が再び自立し、今川氏は衰退をはじめ、義元の後を継いだ嫡子氏真は、8年後に武田信玄によって駿河を追われることとなる。
なお、桶狭間の戦いのとき義元は軍隊を率いて京都に進もうとしていた(上洛しようとしていた)とする説が通説化しているが、彼がそのような戦国大名の軍事行動として考えにくい冒険的作戦を取ったという確証はなく、現在では上洛説への否定的な見解が強い。
義元は武芸に優れた人物ではあったが、寸胴で足が短く馬に乗ることができなかったため合戦の時なども籠に乗り移動したと言われる。 また公家文化に精通しお歯黒をつけ、置眉、薄化粧をするなど普通の武士とは違う一面を持っていたようだ。






