孝徳天皇
孝徳天皇(こうとくてんのう、生年不明 - 654年10月10日)は、日本の第36代の天皇である。軽皇子(かるのみこ)。天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)。
茅渟王(ちぬのおおきみ)の子、押坂彦人大兄皇子の孫、敏達天皇の曾孫である。母は吉備姫王(きびひめのおおきみ)という。皇極天皇(斉明天皇)の同母弟で、天智天皇(中大兄皇子)の叔父にあたる。皇極天皇の娘の間人皇女を皇后にした。阿倍倉梯麻呂の娘の小足媛(おたらしひめ)を妃として、有馬皇子をもうけた。蘇我石川麻呂の娘の乳娘(ちのいらつめ)を妃とした。
生年は不明で、白雉5年 (654年) 10月10日に死去した。在位は孝徳天皇元年 (645年) 6月14日から、白雉5年 (654年) 10月10日であった。
『日本書紀』の評によれば、天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。
皇極天皇4年 (645年) 6月に乙巳の変が起きると、14日に皇極天皇は中大兄皇子に位を譲ろうとした。中大兄は辞退して軽皇子を推薦した。軽皇子は三度辞退して、古人大兄皇子を推薦したが、古人大兄は辞退して出家した。
14日のうちに、軽皇子は壇にのぼって即位した。皇極天皇に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を与え、中大兄を皇太子とした。阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を左大臣に、蘇我石川麻呂を右大臣にした。中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣とした。僧旻と高向玄理を国博士とした。
初めて元号を立てて、大化元年 (645年) とし、650年には白雉に改元した。『日本書紀』が伝えるところによれば、大化元年から翌年にかけて、孝徳天皇は各分野で制度改革を行なった。この改革を、後世の学者は大化の改新と呼ぶ。この改革につき書紀が引用する改新之詔など一連の詔は、後代の官制を下敷きにして改変されたものであることがわかっている。このことから、書紀が述べるような大改革はこのとき存在しなかったのではないかという説が唱えられ、大化改新論争という日本史学上の一大争点になっている。
孝徳天皇の在位中には、高句麗、百済、新羅からしばしば使者が訪れた。従来の百済のほかに、朝鮮半島で守勢にたった新羅も人質を送ってきた。日本(当時は倭)は、形骸のみとなっていた任那の調を廃止した。多数の随員を伴う遣唐使を唐 に派遣した。北の蝦夷に対しては、渟足柵、磐舟柵を越国に築き、柵戸を置いて備えた。史料に見える城柵と柵戸の初めである。
孝徳天皇は、難波長柄豊碕宮を造ってそこに居を定めた。白雉4年 (653年) に、皇太子は天皇に倭京に遷ることを求めた。天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と皇后、皇弟を連れて倭に赴いた。臣下の大半が皇太子に随って去った。天皇は気を落とし、翌年病気になって亡くなった。
| 皇極天皇4年 (645年) |
6月12日 | 中大兄皇子が蘇我入鹿を殺した。 |
| 6月13日 | 中大兄皇子が蘇我蝦夷を殺した。 | |
| 6月14日 | 即位した。 | |
| 大化元年 (645年) |
この年を大化元年とした。 | |
| 7月2日 | 皇后と二人の妃を立てた。 | |
| 7月10日 | 高句麗、百済、新羅の使者が朝貢した。任那の調を代行した百済の使者に対し、調の不足を叱責した。 | |
| 7月14日 | 尾張国と美濃国に神に供える幣を課した。 | |
| 8月5日 | 東国等の国司を任命し、戸籍の作成と田畑の検校などを命じた。 朝廷に鐘を備え、訴訟の遅滞に抗議する者が撞くようにした。 良民と奴婢の子の別を定めた。 | |
| 8月8日 | 仏教の援助を約し、、僧旻ら十人の僧を選び十師とした。 | |
| 9月1日 | 使者を遣わして諸国の武器を治めさせた。 | |
| 9月3日 | 古人皇子が謀反を企んだ。 | |
| 9月12日 | 中大兄が古人皇子を討った。(11月30日、11月とも) | |
| 9月19日 | 土地の貸借を禁止した。 | |
| 12月9日 | 都を難波長柄豊碕に遷した。 | |
| 大化2年 (646年) |
1月1日 | 改新之詔を宣した。 |
| 1月 | 子代離宮に行った。諸国に兵庫を修営らせた。 | |
| 2月15日 | 民の投書を受けるための櫃を設けた。 | |
| 2月22日 | 子代離宮から帰った。高句麗、百済、任那、新羅の使が調賦を貢いだ。 | |
| 3月2日 | 東国の国司に訓戒する詔を発した。 | |
| 3月19日 | 東国の朝集使に対し、国司の失政を咎め、訓戒する詔を発した。 | |
| 3月20日 | 中大兄皇子が自らの入部と屯倉を天皇に献じた。 | |
| 3月22日 | 王臣と庶民の墓制を定め、殉死を禁止した。祓にまつわる諸々の愚俗を禁じた。上京の途上での馬の飼育請負を登録させ、不正を禁じた。市司と要路の渡守に田地を与え、渡し賃の徴収をやめさせた。 | |
| 8月14日 | 品部を廃止し、旧職を廃して百官を設け、官位を叙する方針を詔した。 | |
| 9月 | 高向玄理を新羅に遣わし、任那の調をやめさせた。蝦蟇行宮に行った。 | |
| 大化3年 (647年) |
1月26日 | 高句麗と新羅の使が調賦を貢いだ。 |
| 4月26日 | 皇子、群臣、百姓に対して庸調を与えるむねを詔した。 | |
| この年 | 小郡を壊して宮を造った。 有位の人の出仕の礼法を定めた。 荒田井比羅夫が誤って溝を掘って難波に引き、工事がやり直しになったことを諌める者があったので、即日に中止した。 | |
| 10月11日 | 有馬温湯に行った。 | |
| 12月30日 | 武庫行宮に行った。 | |
| この年 | 七色十三階の冠を制定した。 新羅が金春秋(後の武烈王)を遣わして高向玄理らを送った。金春秋は人質としてとどまった。 渟足柵を造り、柵戸を置いた。 | |
| 大化4年 (648年) |
2月1日 | 三韓に学問僧を遣わした。 |
| 4月1日 | 古い冠を廃した。左右大臣はなお古い冠をかぶった。 | |
| この年 | 新羅が使を遣わして調を貢じた。 磐舟柵を治めて蝦夷に備え、越と信濃の民を選んではじめて柵戸を置いた。 | |
| 大化5年 (649年) |
2月 | 冠十九階を制定した。 高向玄理と釈僧旻に命じて、八省百官を置いた。 |
| 3月17日 | 阿倍倉梯麻呂が死に、天皇は朱雀門に出て哀哭し、嘆いた。 | |
| 3月24日 | 蘇我日向が皇太子に蘇我石川麻呂を讒言した。天皇が軍兵を起こしたため、石川麻呂は逃げた。 | |
| 3月25日 | 蘇我石川麻呂が自殺した。 | |
| 3月26日 | 追討した軍が蘇我石川麻呂の首を斬った。 | |
| 4月20日 | 巨勢徳陀古を左大臣に、大伴長徳を右大臣にした。 | |
| 5月1日 | 三輪色夫と掃部角麻呂を新羅に遣わした。 | |
| この年 | 新羅が金多遂を遣わして人質にした。 | |
| 大化6年 (650年) |
1月1日 | 味経宮に行って賀正礼を行い、その日のうちに帰った。 |
| 2月9日 | 穴戸国司の草壁醜経が白い雉を献じた。 | |
| 白雉元年 (650年) |
2月15日 | 白雉を観る儀式を行い、大赦し、白雉と改元し、穴戸国に鷹を放つことを禁じ、同国の調を三年間免除した。 |
| 4月 | 新羅が使を遣わして調を貢いた。 | |
| 10月 | 宮地にするために墓を壊されたり家を遷されたりした人に物を与え、荒田井比羅夫に宮の堺の標を建てさせた。。 | |
| この年 | 山口大口が詔を受けて千仏の像を刻んだ。 安芸国に百済舶二隻を造らせた。 | |
| 白雉2年 (651年) |
6月 | 百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた。 |
| 12月30日 | 大郡から新しい宮に遷り、そこを難波長柄豊碕宮と名づけた。(大化元年年12月9日に同趣旨の記事あり) | |
| この年 | 新羅の貢調使の知万が唐国の服を着て筑紫に着いたので、その変更をとがめて追い返した。 | |
| 白雉3年 (652年) |
1月1日 | 元日礼を終えてから、大郡宮に行った。 |
| ?月 | 班田を完了した。 | |
| 3月 | 難波宮に帰った。 | |
| 4月15日 | 僧恵隠を内裏に呼び、無量寿経を講じさせ、沙門恵資を論議者とし、沙門一千人を作聴衆にした。 | |
| 4月20日 | 講じ終えた。 | |
| 4月 | 戸籍を造った。 百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた。 | |
| 9月 | 宮が完成した。 | |
| 12月30日 | 天下の僧尼を内裏に呼び、設斎、大捨、燃明した。 | |
| 白雉4年 (653年) |
5月12日 | 遣唐使を送った。一船の大使は吉士長丹、副使は吉士駒であった。別の一船の大使は高田根麻呂、副使は掃守小麻呂であった。 |
| 5月 | 病中の旻法師の部屋に見舞いに行き、直接やさしい言葉をかけた。(白雉5年7月とも) | |
| 6月 | 百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた。 旻法師の死を知り、使を遣わして弔問し、贈り物をした。また、法師のために多くの仏像、菩薩像を造らせ、山田寺に安置した。 | |
| 7月 | 難破した遣唐使船(高田根麻呂)の生存者五人のうち、筏を作って助けを求めた門部金を褒め、その位を進め禄を授けた。 | |
| この年 | 皇太子(中大兄)が倭京に遷ることを請うたが、天皇は許さなかった。皇太子は、皇祖母尊(皇極)と皇后(間人)、皇弟を連れて倭飛鳥河辺行宮に行った。公卿大夫、百官の人らが皆随って遷った。天皇は恨んで皇位を去りたいと思い、宮を山碕に造らせ、歌を皇后に送った。 | |
| 白雉5年 (654年) |
1月5日 | 中臣鎌足に紫冠を授け、封を増した。。 |
| 2月 | 遣唐使を送った。押使は高向玄理、大使に河辺麻呂、副使に薬師恵日。(5月とも) | |
| 7月24日 | 西海使の吉士長丹らが、百済と新羅の送使とともに筑紫に着いた。 | |
| 10月1日 | 天皇の病を聞き、皇太子が、皇祖母尊、皇后、皇弟、公卿らを率いて難波宮に赴いた。 | |
| 10月10日 | 死去。 | |
| 12月8日 | 大坂磯長陵に葬られた。 |
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