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マチュ・ピチュ

Table of contents
1 マチュ・ピチュの概要
2 ハイラム・ビンガムの遺跡発見
3 最近の研究成果
4 人口は最大でも750名
5 研究を離れたビンガム
6 外部リンク
7 資料

マチュ・ピチュの概要

マチュ・ピチュ(Machu Picchu)は、現地語では《大いなる頂き》の意味で、よく保存されたインカの遺跡である。ペルーのウルバンバ谷 (Urubamba valley) に沿う高い山の尾根(標高約 6,750ft、2,057メートル)に位置している。しばしば《インカの失われた都市》或いは《空中の楼閣》と呼ばれる。この遺跡には3mづつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段で繋がっている。遺跡の面積は約13Km2で、石の建物の総数は約200戸が数えられる。 熱帯山岳樹林帯の中央にあり、植物は多様性に富んでいる。行政上クスコと同じ地域に属している。現在ペルー国内では10ヶ所あるユネスコ世界遺産のうちでは最初にクスコと同時(1983年)に指定された。


マチュ・ピチュ
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ハイラム・ビンガムの遺跡発見

イェール大学の歴史家であるハイラム・ビンガム (Hiram Bingham 1875年-1956年) が、この地域の古いインカの道路を探検していた時、山の上にこの遺跡を発見した。1911年7月11日の事である。
ビンガムは1915年までに3回の発掘を行った。彼はマチュ・ピチュについて一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになった。この本は、ナショナル・ジオグラフィック誌 が1913年4月号のすべてをマチュ・ピチュ特集にした事で、有名になった。また、1930年の著書「マチュ・ピチュ:インカの要塞」は廃墟の写真と地図が記載されており、説得力のある決定的な論文となった。以後、太陽を崇める神官達が統治したとか、或いは太陽の処女達が生け贄にされたといった定説が形成された。

最近の研究成果

一方、第一人者としてのビンガムのマチュ・ピチュに関する発表や仮説が、その後の研究の妨げになっていたのも事実である。

イェール大学のピーボディ博物館の館長リチャード・L・バーガー博士 (Dr.Richard L.Burger)、並びに、ルーシー・C・サラザール博士 (Dr. Lucy C.Salazar) 等によれば、マチュ・ピチュはスペイン人によって追い詰められた最後の砦ではないとの結論となった。16世紀のスペイン公文書によれば僅かに抵抗していた最後のインカ族は、「1572年熱帯の盆地の隠れ家で降伏した」との記述があり、それはマチュ・ピチュのような高地ではなかった。

再調査では、ビンガムがマチュ・ピチュから運搬してきた多数の人工遺物が、1920年代のニューヨーク・タイムズ紙の包装のまま箱に梱包され、エール大学の地下倉庫で眠っていて研究されていなかった。壷、ブロンズの宝飾品、道具類、骸骨片、その他を再調査した結果、特に遺物の《壷》についてのサラザール博士の徹底的な調査では、すべての壷の様式は15世紀のものであった。墓の埋蔵物についての研究では、質素な物が多く、王族ではなく召使のものと推定された。 

ビンガムは、同行した骨学者に、「出土した骨は女性の骨が大半だった」との誤った報告を受けていた。ニューオリンズ州トゥーレイン大学の身体人類学者ジョン・W・ヴェラノ博士(Dr.John W.Verano)の新しい研究で、骨は男女同じ比率であったこと、多くの家族と幼児が生活していたこと、また処女たちの共同生活を示すようなものは無かったと報告している。骨の分析では、結核や寄生虫のケースが見られ、また、とうもろこしの食生活による歯の損傷も見られるものの、殆どは大人で50歳以上の年寄りが多くおり、その結果ここでの生活はかなり健康的であったと判断された。幼年期に頭部に巻きつけられたもので頭部の変形しているものがあり、ある者は海岸地域や或いはチチカカ湖方面からと地域によって異なる文化があったことが分かっており、遠方からやってきた職人達であろうと推定された。王族がマチュ・ピチュで死亡した場合は、そこで埋葬されるよりもクスコに運んで埋葬されたと考えるのが妥当と結論づけられた。
カリフォルニア大学バークレイ校のジャン・ピエール・プロツェン(Dr.Jean-Pierre Protzen)建築学教授は、石垣をぴったりと重ねて積む方法は石で石を削ったと考えられそれが実証できる。当時巨石文明が世界各地で見られその運搬手段は解明されたが、マチュ・ピチュの場合は傾斜路を造る余地がない為どうやって5tから10tもある巨石を運び上げたかはまだ謎であるとしている。
また、「ビンガムの発掘ノートは、何を発掘したかよりも何を食べたか、の記述が多かった」とも、公表された。

人口は最大でも750名

この都市は通常の都市ではなく、インカの王族や貴族の為の、田舎の別荘といった種類のものであった。いわば、15世紀のインカの王の為の別荘、すなわち現在で言えば、アメリカ大統領にとってのキャンプ・デービッドのような位置付けであったらしい。

遺跡には大きな宮殿や寺院が王宮の周囲にあり、そこでの生活を支える職員の住居もある。マチュ・ピチュでは最大でも一時に約750名の住民しか居なかったと推定され、雨季や王族が不在の時には、多分ほんの一握りの住民しかいなかったと推定されている。

この都市はインカの王パチャクチ(Pachacuti)の時代の1440年頃に建設が着手され、1532年にスペイン人により征服されるまでの約80年間、人々が生活していた。
ペルーの考古学者アルフレド・ヴァレンシア・ゼガラ博士(Dr.Alfredo Valencia Zegarra)とコロンビアの水利技術者ケネス・ライト氏(Kenneth Wright)による調査では、この都市の建設に要した努力の60%は急傾斜の城壁の見えない土台などの部分に傾注されおり、積み上げられた石積みが500年も崩れないのは、農耕の為だけに斜面を整地したのではなかった。渓谷から細かい砂と表土を運び上げ、現在見える石積みの下に畝状に盛り上げた表層を造ったとしている。

なぜこのような急峻な山の上に造ったか、と言う質問に対してラファイエット単科大学のナイルズ博士(Dr.Niles of Lafayette College)は、「パチャクチがこの場所を選んだのは、、、圧倒する景色としか答えようがありません」と言う。

研究を離れたビンガム

ビンガムはイェール大学の教鞭を辞してから、コネチカット州の副知事、知事を経て上院議員になったが、彼のインカ調査への影響力は死後も40年近くにわたって強く残った。それは一つに彼の情熱的な文章のせいだった。

外部リンク

(英語)
イェール大学(Yale University)
ピーボディー歴史博物館(the Peabody Museum of History)
ナショナル・ジオグラフィック誌(National Geografic Society)
トゥーレイン大学(Tulane University)
コネチカット州(the State of Connecticut)

資料

'Lost City' Yielding Its Secrets   2003年3月18日付 New York Times記事



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