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ビートルズ

ビートルズ (The Beatles) は最も広く知られ、成功したロックバンドの一つである。イギリスのリバプールで結成、1962年にイギリスでレコードデビュー、1970年に解散し個人で音楽活動をすることになった。

Table of contents
1 メンバーと主な担当楽器
2 デビュー当初から初期
3 ライヴツアーの中止とバンド崩壊の危機
4 アルバム「サージェントペパーズ」の衝撃と後への貢献
5 解散と再結成?
6 悲しい形の再結成(アンソロジー・プロジェクト)
7 最新プロジェクト
8 最近のメンバーの活動
9 ディスコグラフィ
10 映画

メンバーと主な担当楽器

全員が作曲、ボーカル、コーラスを担当する。またジョン・レノン、ポール・マッカートニーのピアノ演奏は有名。ポール・マッカートニーはギターにも優れた演奏が多い。

レコードデビュー以前のメンバーとして、スチュアート・サトクリフ(ベース)、ピート・ベスト(ドラム)の二名がよく知られている。スチュアートは早い段階で病死したために、ポールがベーシストになるきっかけとなり、ピートはレコードデビュー直前(正式かリハーサルかは不明だが、確実な形での録音テイクは一部残っている。)に、他の3人がプロデューサーのジョージ・マーティンに申し入れし、リンゴと入れ替えられた。

ビートルズが大衆音楽ビジネスのプロモーションを確立した立役者としてマネージャーのブライアン・エプスタイン、音楽的に'5人目のビートルズ'と呼ばれる貢献をしたプロデューサーのジョージ・マーティンがいる。 実際には、同プロデューサーも、かなりの曲でピアノを演奏しているといわれ、ポール・マッカートニーや外部ドラマーによるドラムの差し替え、(「スタジオ・ミュージシャン」という名称やステータスのない当時)参加したミュージシャンやプレイヤーについての謎も、未だに多い。

デビュー当初から初期

デビューが決まり、曲を録音するまでの段階で、ジョージ・マーティンは誰を中心のボーカリストにするか悩んだという。というのも、当時は特にリズム・アンド・ブルース系やドゥーワップ系のグループなどでは、「リード・ボーカリスト+バックコーラスやバックバンド」という形式が多かったからである。スターを1名プッシュして売り出すという目的もあったと思われる。デビュー以前というか、ステージで生計を立てていた時代は、ポールやジョンよりも、むしろジョージが多く歌っていたステージもあったくらいで、非常にマーティンの頭を悩ませていた。最初は、声質やハーモニーパートから、ジョンをリード・ボーカルとして押し出すつもりであったが、ポールの声質も捨てがたかったという。(ジョージは声質の点で、はずされたという事になる。)悩みぬいた末、ジョンとポールの二人のボーカルを押し出す事に決定したという。それが、デビュー後の『シー・ラヴズ・ユー』『抱きしめたい』等の数え切れないくらいのジョンとポールのどちらがリードボーカルのメロディーなのかわからない曲や、『ア・ハード・デイズ・ナイト』などのように1曲の中で部分によって二人が歌い分ける曲のパターン、『エイト・デイズ・ア・ウィーク』『デイ・トリッパー』などのように最初はジョンやポールがリードボーカルのパートなのだが、いつの間にかリードパートを歌っている者がハーモニーに回り、リード・ボーカルが交代してしまうパターン」といった形態が出来上がったともいえる。『シー・ラヴズ・ユー』や『イン・マイ・ライフ』などのように、聞き流すとジョンとポールの2名の声しか聞こえないが、ジョージがしっかりとリードボーカルのパートをサポートしたり、部分的という以上に3部でハーモニーをとっている曲も少なくない。

ファッション面を除いても、ポピュラー音楽史で当時の彼らが重要な役割を果たしたと思われる事は数え切れないが、あえて絞り込むと、次の3点が挙げられる。

最初に、(音楽面では、米国のリスナーからもやや低く見られていた当時の英国音楽界から、)米国本土に本格的に進出し、チャートにも定期的にヒット曲を送り込むほどのバンドであったこと(米国での正式レコードデビューの年でもある1964年当初は、ビルボード誌のシングルチャートの1~5位を独占)。

次に、特に中期にさしかかろうとするあたりから、クラシック音楽家の演奏やインド音楽楽器演奏を、自作のサウンドに融合する形で組み込んだこと。

最後に、俗にいわれる「『バンド(のサウンド上での)マジック』を体現したといわれる最初のロックバンド」であったといえることである。

この3点めについては各々の解釈もあり、音楽を職業としている者にも解りにくいことがらではある。「ある一つのジャズやロックの(グループや)バンド全員の作品として、作曲、アレンジ、演奏などや、その全てに対して合同作業がなされた結果、その作品が、同バンドのメンバーのソロ作品を超えてしまうことはもとより、同バンドに属する単純な人数分の作業以上の優れたレベルの作品として聞こえてしまうといった現象」(「1+1+1+1=4+α」になるという意味)である。

ビートルズについていえば、音楽の変化・発展の激しかった1960年代後半当時に多数デビューしたスーパー・ミュージシャン達やロック・バンドらと互角に対抗して生き残れたのも、解散後の各ソロ作品が(個人的には能力やテクニックが向上し、個々の作品単位では秀作が発表されても)総合的には「ザ・ビートルズ」としてのブランド作品には及ばなかったのも、ジョン・レノンが死んだ時点で、各メンバーが再結成を断念したのも、根底には大きくこういった実情があったともいえる。 これは、彼らにとっては結果的な現象であり、プロデュース面でも左右されるが、同様の例は、彼らの登場後、世界中のあらゆるポップス・グループやジャズ・セッション・グループ、ロック・バンドにもあてはまる事が多くなった。

ビートルズがまだ世界ツアーをしていた当初、ジョン・レノンが「ビートルズはキリストよりも偉大だ」といった発言により、アメリカ合衆国各地や世界中のキリスト教国に於いて、デモが行われたり、レコードやポスターが焼かれたり、楽曲の放送を控えざるをえなくなったラジオ局が増えたりと、大変な騒ぎとなったのは有名な話。後に、ジョンが発言撤回をしたり、言い訳めいた発言をしていたりしていたが、発言の真意は別のところにあったとも思われる。来日公演は、1966年の6月から7月にかけてで、国内では東京武道館でのTV放映もされた。余談ではあるが、その後ビートルズとしての来日はなく、1979年ポールのバンド、ウィングスの公演のための来日の際、当のポール本人がマリファナ所持で逮捕拘留されたために、その公演自体が中止となり、1989年のポールの公演を待つしかなかった。(その直後の1990年にはリンゴ、1992年にはジョージ、翌1993年には再びポールと、たて続けに元ビートルズのメンバーが来日公演を果たす事となる。)

ライヴツアーの中止とバンド崩壊の危機

スタジオ録音作品のテクノロジー多用による複雑化によるステージ再現不可能化のためか、長年のハードなスケジュールによる精神的疲弊のためか、1960年代中期ころから台頭してきた、演奏重視のバンドやそれに伴ってバンドとして演奏力がついていけなくなったためか、そのいくつかの理由が重なったためか、その他にも理由があるのかは不明だが、1966年のアメリカツアーを以って、ライヴ活動を停止する。それによって、ブライアン・エプスタインのバンドに対する大きな役割・貢献も終えてしまい、翌年、睡眠薬の多用によるといわてれいる原因で死亡してしまう。「ライヴツアーをやめてしまい、スタジオ・ワークだけになったビートルズは長続きしない」と主張した評論家や音楽雑誌もあったが、バンドはさらに続き、名作といわれるアルバムやヒットシングルも断続的にリリースすることとはなるが、(エプスタインの死と直接の関係があるのかは不明だが)バンドとしての求心力やメンバー間の結束は弱まり、様々な要因も加わって、徐々に、解散への道へと進んでいくこととなる。

1967年の世界初の衛星中継による、全世界同時テレビ中継で『ALL YOU NEED IS LOVE(愛こそすべて)』を演奏したのは有名な話で、そこには、ローリング・ストーンズのボーカリストミック・ジャガーなど有名著名人らの姿もみられた。なお、この放送はモノクロ放送であったが、当時の様子を写したカラー写真などから、コンピューターによる人工着色がなされた。それが、リアルな彩りであったため、「当時の同放送はカラー中継であった」「モノクロとカラーの二種類の記録フィルムが存在している」などの諸説が流れた。

アルバム「サージェントペパーズ」の衝撃と後への貢献

(内容的には前後する事もあるが)アルバム「サージェントペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」がリリースされた際には、世界中に戦慄が走ったという。もちろん、これが4トラック録音を駆使した結果(2台使用したというのが通説)のサウンドでこれほどの音楽を作り上げたことは、当時信じないものも多く、「4トラック録音機2台のシンクロに成功」とか「10トラック以上のマルチ録音機を完成」などとデマに近い噂も飛んだ。

このアルバムはそれまでの彼らの音楽とは異なっていて、1曲1曲がバラバラといっていいほどまとまりのない広いジャンルに渡る楽曲の集まりであった。これを、「架空のバンドによる、擬似ライヴショー仕立てにする」というアイディアにより、1枚のアルバムとして統一感を持たせたアイディアはポールであった。「擬似ライヴ仕立て」というのは、ビートルズとしてのライヴを再開したかったポール自身のフラストレーションの表れや他のメンバーへのメッセージだったかもしれない。実際に、最初の2曲はメドレー形式になっていて、最後に再度バンドのテーマ曲に相当する短い曲(リプライズ)を演奏し、アンコールに相当する曲もその後に配置されている。最初のジョンはほとんど曲を提供しないためにポールにせかされた。解散後のインタビューでジョンは「このアルバムはポールのソロ・アルバム」といったニュアンスに近い発言をしていた。確かに、ポールの曲が半分以上を占めているが、それと逆に、初期の名作アルバム「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」では大半の曲がジョンがメインで作った作品で占められていたので(しかも、駄作がないという)、バンドに於いては、(対等なリーダー格のメンバーが二人以上いた場合に)その中で特定のメンバーが優位に立つのは珍しいこととはいえない。

「ジャケットに歌詞を印刷する」「ドラムを布などでミュートする」「ベースラインが和音(コード)のルート音に限定せずに、時にはフレーズやメロディーをプレイする時もある」など、全て彼らが最初に行ったとは言い切れないとしても、あらゆる面で画期的な手法が誰にもわかる方法で押し出し、完成させたといえる。特に、それまで彼らの曲など聞かなかった多くのロック・ミュージック嫌いの者を味方につけてしまった。あるいはファンにしてしまったという現象も起きた。

特に、当時クラシック演奏者からはポップ・ミュージックは低く見られていたので、ロックバンドとクラシック楽器が一緒に演奏するなどということはまずなかった。この貢献やアイディアの元は、おそらく、プロデューサーのジョージ・マーティンに因るところが大きいと思われる。1965年の「イエスタディー」の頃は、弦楽四重奏を使用したのが、はじまりではあるが、フルオーケストラとロック系音楽の競演となると事態が異なる。クラシック演奏家にも特に当時はプライドがあり、真実は知らないが「成立して10年ほどしかたたない騒々しい、レベルの低いミュージシャンとは一緒に演奏したくない」と、当時考えられたとしても不思議はない。それが、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」などで実現した。これもやはり、マーティンの仲介がなければ無理だったかもしれないし、前述の内容とは矛盾するが、クラシック奏者側も個人的には、ビートルズの数曲に対して好感を持つものも増えてきたということかもしれない。この事がなければ、数年後にディープ・パープルがオーケストラと競演するのはむりであったろうし、ほとんどのプログレッシブロックでも同様であったろう。この事実と貢献については、イエス及び、後にキング・クリムゾンのドラマーでもあったビル・ブラッフォードが1980年代後半に、インタビューで言及している。

「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ア・ダイアモンド(日本語ではわかりづらいので、あえて、分かり易く英語で表記すると、[Lucy in the Sky with a Diamond]とタイトルの名詞の頭文字をつなげると「LSD」となり、内容の難しさや意味のなさや色彩感から、ドラッグソングとして、アメリカやイギリスなどの多くの放送局では放送禁止となった。後にジョンは、「今思うと、歌詞も意味がなくバカげている。タイトルで『LSD』の文字が入ったのは偶然」と述べていたが、真実は不明。しかし、彼らに限ったことではないとしても、このアルバムはもとより、この前後に作られたビートルズ作品のインスピレーションやアイディアなど多くは(全てではない)、マリファナなども含めた薬物の影響で作られたといってもいい。

全てを綴ると、ぶ厚い本1冊でも足りなくなってしまうほど、正味わずか8年程度の活動期間にもかかわらず、音楽以外のエピソードといった面でも何かと問題、話題の多いバンドであった。

解散と再結成?

ビートルズについて語る本ではオノ・ヨーコがジョン・レノンをビートルズから引き離した張本人として、悪者扱いされる例がよく見られるが、直接の解散の原因はよくわからない。ジョン自身にとっては、「ビートルズ・ブランド」がデビュー当初に自分達が意図していたものからかけ離れてしまい、バンドの名前だけが一人歩きしてしまい、すでに初期の音楽パターンでは時代遅れになってしまったという、音楽的プレッシャーの中、たまたまヨーコが現れ、様々なインスピレーションが浮かび、それが、ビートルズの枠を超えてしまった、あるいは、ビートルズ自体に興味を失ってしまう結果となったのかもしれない。「各々のメンバーがマネージャー、エプスタインの死によって方向性を見失った」という、前項の災難も大きく影響している。後のマネージャーは、ビートルズにとって能無しの上に、金を搾取している状態。既に、ポール以外は、1960年代中期から台頭してきた周辺のテクニカルな音楽にバンドとしての演奏力がついていけなくなったのに加え、スタジオワークが音楽活動の主となり、さらにバンドとしての個々の演奏やステージでの感覚も忘れかけていたこともあるし、バンド自体閉鎖的だったのに加え、ソロ活動も盛んになってきた。ポールは、ステージ活動を訴えかけたが、ジョージやリンゴは反対、ジョンは(多分)ビートルズとしてのライヴ活動を含めて興味を失っていた状態。

「レット・イット・ビー」の映像も(旧バージョンやTV放映の録画をお持ちの方もいるとは思うが)ジョージの死後、DVD等での再リリースが決定したので、その様子を見るとバンドの雰囲気がわかるであろう。ルーフトップ(アップル社屋屋上・「アップル」とは、ビートルズが[[1960年代後半当時設立したレーベル会社会社で、当時、「バッドフィンガー」など、他のアーチストのレコードもリリースしたが、ビートルズ解散してまもなく倒産。現在は、元メンバー間でこのビジネスとしての訴訟については和解し、元ソロのメンバーやその権利を有した遺族などが再集結してビートルズの新・再問わず、音源や映像作品などをリリースする際には、主としてそのレーベルが使われる。)でのゲリラ的抜き打ちライブはいいとして、「ジョージの曲に興味を示さないでヨーコと踊っているジョン」「(ジョージ自身が激怒したと後のインタビューで語っていた)映像に撮られているのを知りながら、あるいは、映像を意識した上でポールがジョージにギターの弾き方について意見するシーン」等々、スタンダードナバーを演奏する以外、けだるさとバンドへのやる気のなさが各所に出ている作品でもある。既にリンゴでは役が重すぎた緩衝材としての役目を、ジョージがビリー・プレストンをバンドのバックアップに連れて来る事でなしえようとしたが、演奏の出来はよくなったとしても、バンドの雰囲気を変えるまでには多少の効果しかしかなった。その時のジョンとポールは一時よそ行きの態度ににはなったらしいが、「ゴールが解散」と分かっている坂を転げ落ちていくバンドの動き自体を止めるのは不可能であった。

その後、音源はオクラ入りとなり、ジョンたちの依頼によりフィル・スペクターが手をかけて完成(つまり、商品化)させるまでに、まる1年以上発売が遅れることとなるが、それから数ヵ月後、ポールがジョージ・マーティンに連絡し、「ビートルズの新しいアルバムを作る」と申し出てきた。マーティンは自分の耳を疑ったが「本気で作る気ならば、(プロデューサーとして)立ち合う」ということで合意し、制作、完成されたのが「アビー・ロード」である。

ファンや多少洋楽のロックやポップスに詳しい者なら、説明する必要もないので読み飛ばして頂いても結構だが、「最後に発売された彼らのオリジナル・アルバムが『レット・イット・ビー』」、「ビートルズとして最後に制作(録音)されたのが『アビー・ロード』といわれている」所以がそこにある。なお、「レコードB面(CDは後半部)のほとんどをメドレー形式にする」というアイディアはポールのものであり、彼が中心になって作業が進められた。逆に、レコードでいうA面(CDであれば前半)は、主にジョンが仕切ったといわれている。

数々の経過は省くが、ジョンに対する歌だといわれている『GET BACK(ゲット・バック)』(戻って来い)から、バンドそのものに対して『LET IT BE(レット・イット・ビー)』(もう、なるようになれ)と心境が変わっていったという内容に現れているように、ポール自身が訴訟を起こす形で1970年、正式にビートルズ解散となった。その後、それぞれのメンバーはソロ活動をすることとなる。

その後、何度か「ビートルズ再結成!?」の記事が新聞や音楽雑誌、TVニュースに数年毎に出てくるが、正式な再結成はなかった。

実は、あまり公にはされていないが、ビートルズ正式解散直後は、お互いのソロでの曲の歌詞の中でも言い合いをするほど険悪であったが、それから数年経過してからは、ジョンとポールは、ビジネス抜きで「デビュー前からの友人として」「かつては、曲作りのパートナーでもあり、お互いに敬意を抱く中」として何度も会っていて、1974年には、スティービー・ワンダーなども交えてジャムセッションまでしていて、「スタンド・バイ・ミー」や「ルシール」などを演奏している。これは、他のミュージシャンがたまたま同席していた際の遊びで、再結成につながる動きではなかった。

悲しい形の再結成(アンソロジー・プロジェクト)

ビートルズ・アンソロジーのプロジェクトの一環として1993年に発表された第1弾フリー・アズ・ア・バード、及び、その数年後に第2弾として発表されたリアル・ラヴの2曲は、同バンド名義の新作として、シングルCD(前者はアルバムビートルズ・アンソロジー1及び、後者は同 2にも各々収録)リリースされたが、実際は、ジョン・レノンが射殺される1980年以前の数年間に録音された、彼のピアノによる弾き語りデモテープを、当時のテクノロジーでノイズ除去処理し、当時元メンバーであったポール、リンゴ、(現在は故人である)ジョージの3人がダビングして仕上げたものである。当初、アンソロジー・プロジェクトに際して、ヨーコからこれらの曲などの入ったテープを手渡されて聴いた時には、3人とも悲しくていたたまれなかった、という。そのうち、「このテープを録音して残したまま、『あとは、ポールとジョージとリンゴの3人で曲を仕上げてくれ』といってジョン本人はどこか遠く長い旅行へ行った」と仮定して、ジョークを飛ばしたり、(存在しないジョンを)冷やかしたりしながら録音作業を続けたという。

ジョンの歌っている部分は、元々デモテープ(多分、カセットテープの生録音)なので、音質に難がある。しかも、ジョンの特徴として、本番かそれに近い段階までは声や歌い方を整えず、デモや初期のリハーサルでは流すような、あるいは囁くような、歌い方のものが多い。この、「フリー・アズ・ア・バード」もその典型で、曲中、1回目はポール、2回目はジョージが歌っている、最もビートルズらしい部分でもある、美しくも緊張感溢れる中間部のメロディーの原形は、ジョンのデモではかろうじて形になっている程度だが、歌詞は鼻歌かハミング程度ではっきりと歌っていない。残りの3人、特に、ポールとジョージとで残りのメロディーとコードや歌詞を仕上げたと思われる。もう一つの特徴として、ジョージは、ビートルズ解散直前にギタリストや作曲家として完成したといってもよく、解散後の自分のソロアルバムにスライドギターを本格的に弾きだしているのだが、この「フリー・アズ・ア・バード」に関しては、ジョージは自分の持っている全ての音楽性やキャリアをこの曲に継ぎこみ、一方でポールは、ウィングス以降のソロ時代の個性や特徴を一切排除して、ポールの芯の部分というか、1960年代中期から後期にかけての「ビートルズのポール」という立場で、この曲をプレイしているようにも聞こえる。

2作目の「リアル・ラヴ」は、とてもジョンらしい、シンプルというよりは素朴で美しい曲だが、かなり再生速度を上げている。ポールがデモテープどおりにジョンのピアノのタッチを再現している。さらにポールは、「ジョンとの二重唱」というよりは、「ジョンの歌声をサポートする」形で、ポール自身の声質を抑えて、回転速度のためにトーンが高くなったジョンの声をなぞるように歌っている。聞く者によって、意見は異なるであろうが、強いていうなら、どちらもサウンド的には、中期の「ラバー・ソウル」と後期の「アビー・ロード」を合わせたような形となっている。

それらも含めて、話題性はありヒットチャート入りしたが、ファンや評論家の中には、当然ながら「BEATLES作品」としてカウントしないという硬派も存在する。

また、この「アンソロジー」は、デビュー以前の音源や未発表曲や別バージョン、ライヴやデモ、リハーサルなどの音源を収めたCDばかりではなく、ビデオやDVDといった映像や、分厚い文献による記録も含まれている、膨大なものである。

ジョンが復帰アルバムダブル・ファンタジーをリリースしてまもなくのインタビューで、「もう1枚アルバムをリリースしてから、世界ツアーに出る。そこでは、ビートルズのナンバーも今まで以上に何曲か演奏するつもりだ。」という内容の発言もあった。歴史に「もしも」はないが、1980年以降も彼が存命していて、アンソロジー・プロジェクトに賛成したとして、「真のビートルズの新作が発表されたなら」などと考えると、ファンならずとも誰もが残念に思えてならないことであろう。

最新プロジェクト

この、「アンソロジー」のプロジクトでも用いられた方式ではあるが、『イエロー・サブマリン・ソングトラック』独自の制作法、つまり既発の『イエロー・サブマリン』との違いがある。ここから先は録音機材について、少々専門的な説明となる。諸説あるのだが、デビューからファースト・アルバムを経て、本国イギリスでは4枚目のシングルの『シー・ラヴズ・ユー』までは2トラック録音、次のシングル『抱きしめたい』から4トラック録音機を導入し、アルバムでは『サージェントペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(以下、アルバムを指す場合は『サージェントペパーズ』と略す。)をピークとして、その後の(CDでは次作アルバムにあたる)『マジカル・ミステリー・ツアー』やそのころリリースされたシングル『レディー・マドンナ』まで続く。『ホワイト・アルバム』(一部収録曲は4トラック録音という説もあり)とその先行発売シングル『ヘイジュード』から、最後に録音されたアルバム『アビー・ロード』までは8トラック録音である。

中には、「セカンド・アルバムは2トラック録音機を二台シンクロさせた実質3トラック録音」だとか、「『サージェントペパーズ』は、4トラック録音機を2台シンクロさせて録音した」とか、「『アビー・ロード』は16トラック録音」などの諸説もあったが、1960年代当時にシンクロ技術がなかったことは、シンクロ技術が出始めた1980年代の、ジョージ・マーティンのインタビューなどでも明らかだし、アメリカ合衆国の録音事情は知らないが、『アビー・ロード』と同時期頃にリリースされた、レッド・ツェッペリンのファーストやセカンドアルバムや、キング・クリムゾン」のファースト・アルバムを聞けば、16トラック録音ではないことが一目瞭然である。何よりも、ビートルズ解散直後の各メンバーのソロアルバムを聞けば、8トラック録音であることがわかるはずである。(ジョン・レノンのアルバム『イマジン』は、8トラックを2台使用しているとの発言が関係者から出ている。)

4トラック録音の場合、4回別々にモノラル録音が可能で、(ミックス段階ではステレオにするのは自由である)ビートルズの「初期は、1~2トラックに演奏、残った2~3トラックにボーカルの二度重ね(ダブルトラック録音)やリードギターを重ねたりしていた」が、「中期などでは、3トラック分にドラム・ベース・リズムギターまたはピアノ(「リズム・パート」などという)をそれぞれ別々に録音し、それを何も録音していない残った1トラックに録音する。(これを「ピンポン録音」という。)そして、リズム・トラックを録音していた3トラックにボーカルやリードギターやキーボード、時にストリングスやブラスなどを入れる」という形態をとっていた。「アルバム『サージェントペパーズ』以降にいたっては、リズムパート録音段階と、次のダビング段階を別々2台の4トラック録音機で行っていた。したがって、リズム・トラックをピンポン録音せずに残っていた曲は、その2台分の録音トラックを「最新の技術」でシンクロさせ、既存のレコードやCDでは一箇所に押し込められて団子状態になっていた、それぞれの楽器音がバラバラにされて別々の位置(定位)から聞こえるといった音処理が、この、『イエロー・サブマリン・ソングトラック』(『Y・S・ソングトラック』と略)でなされたというわけである。実際のこの映像では、同名アルバム以外の、他のアルバム収録曲やシングルのみの発売曲も使用されている。『Y・S・ソングトラック』では、製作段階でピンポン録音がされたと推測されるアルバム『ラバー・ソウル』収録曲では音質がよくなって、多少定位が変わった程度で、せいぜいテクノロジーでステレオ感を強調している程度だが、特に『サージェントペパーズ』収録曲では、より現代風になり、ビートルズ後期の音に近づいたともいえる。

今後は既発売の各アルバムに対してもこの様式を用いて再発すると思われるが、この『Y・S・ソングトラック』は、タイトルに惑わされずに、一度、既発売のCDアルバム『イエロー・サブマリン』をはじめ、既発売の同曲CDと聞き比べることを、ファンや曲に興味のある方々にはお勧めする。

最近のメンバーの活動

1980年に射殺されたジョンの意志、「世界平和への願い」は、元ビートルズのメンバーはもとより未亡人のオノ・ヨーコ、その息子ショーン他、影響を受けたアーチストを含め多くの人々によって引き継がれている。現在は「音楽で世界を変えられる」などと考える者は皆無に近いであろうが、それでも、平和をテーマとして歌い続けるミュージシャンは多い。

ポール自身も、ニューヨークで起きた悲惨なテロに対して抗議の意志を示した曲「フリーダム」をテロ発生直後に作り、その数ヶ月後にステージで歌い、同時期にたまたまリリース予定だったCDにも急遽追加収録した。当のポールは、最近特にアルバム・リリースのペースも落ち、「大々的な世界ツアーも2002年のもので最後になる」と述べていたが、(実際には、前述のテロの影響で延期になった分のライヴを、2003年になって、ロシアでのステージも含めて行った。)60歳代に入った今なお、現役のミュージシャンである。(アメリカツアーの様子は、CDやDVDにもなっている。日本での公演は、2002年11月。日本公演での曲目は一部変更されている。)

リンゴも世界的に有名なミュージシャンをその都度集めて、自分も楽しむ目的で、ビートルズ時代のナンバーやソロ時代初期に出したヒット曲を中心に、定期的にライヴを行っている。

ジョージは、事実は以前から分かっていたことではあったのだが、ビートルズ・アンソロジー計画完成を見届けるかのようにして、残念なことに今世紀に入ってまもなく癌により他界してしまった。

2003年現在、生存メンバーの一人であるポール・マッカートニーと、プロデューサーであったジョージ・マーティンは、英国に於いて、ナイトの称号が与えられている。

ディスコグラフィ

英国版オリジナル・アルバム

(記念すべきデビューアルバム。ジョンが風邪をひいていた状態で、シングルで発表された曲を除く10曲以上を、ほぼ1日でスタジオライヴ録音したもの。) (ボーカルのダブルトラックも使いはじめたことから、明らかに4トラック録音である。曲調にかかわらす、彼らの初期作品の中では、ラフで泥臭い印象もする。当時はヘビーだったことであろう。) (または、現在は原タイトルの「ア・ハード・デイズ・ナイト」、映画用のサウンドトラックとしての曲も含めて、ジョンが曲作りの中心となった、初期の名作。) (クリスマスに合わせてツアーの合間に作られたため、1、2枚目のアルバム同様、オリジナルにコピー曲を加えて短期間で録音。彼らの中ではカントリー色が強い。) (ここまでが一般に『初期』と呼ばれる。レコードではA面、CDでは前半が映画のサントラ、「イエスタディー」は映画とは関係のないB面、CDでは後半部分に収録。) (ここからが『中期』、正確には『初期と中期』との中間に位置する作品。サイケ色もほとんどない一方、「イエスタディー」「イッツ・オンリー・ラヴ」等、前作の一部の作風から引き継いでいる、「静か」というか「メロディー重視のバラード系やアコースティック系」の曲が多いためでもある。ジョンとポールの作品の質・数共にバランスのとれはじめてきた作品。) (ある意味ロックっぽいアルバムだが、スタジオテクノロジーも駆使しはじめ、先行発売シングルの「ペーパーバックライター」しか当時のライヴではやらないまま、ツアー中止となる。) (本文参照。) (この項で記述されている前作の、バンドとしてのまとまりから一転し、「様々なバンド作品の集大成」というよりは、「解散後にも通じるようなソロ作品を、『ビートルズ・ブランド』の名の元にまとめた」という印象の強い作品。曲数からも、散漫な印象を受けるが、曲もバラードからギターの弾き語り超、ボードビルからハードロックンロール、ミュージック・コンクレート風などと幅広い。これ以降を『後期』と呼ぶことが多いが、次の作品は後述のとおり、発売年とは別に性格上、除かれる。) (レコードではA面(CDでは前半)がビートルズの作品。メンバーが当初乗り気でなかったので、中期に録音されて余った曲や捨て曲が主に入れられたとも言われている。レコードB面(同じくCDでは後半)がジョージマーティン作曲・編曲による、オーケストラでのサウンドトラック。) (ビートルズとしては、実質の最終録音のアルバム) (一度『ゲット・バック』としてリリースする予定だったが、プロデューサーのジョージ・マーティンはほとんどノータッチ。使える曲目数や演奏といった出来に満足できず、一度オクラ入りとなったものを、後に、フィル・スペクターがプロデュース、というよりは、テープ編集やストリングスやコーラスを加えることによって作品としたもの。特に、『ロング・アンド・ワインディング・ロード』では、実際の作曲者であるポール・マッカートニーと、ストリングスやコーラスのダビングをめぐってアレンジ面での意見の衝突があった。曲目が全て一緒ではないが、当時の曲の本来の姿を知るべくアルバムが、2003年11月、『レット・イット・ビー・ネイキッド』として発売されることとなった。)

CD化された際に、英国に於いても正式版としてリリースされた作品

注:これら3作のCDのうち、最初の作品はシングル盤との曲の重複があったり、特に後の2作品はベスト盤的性格もあるが、一番の目的は、英国での正規発売アルバムに収録しなかった、シングルレコードリリースのみのAB面曲や別テイクをまとめたりしたものであり、アナログ時代(LPレコードアルバム)の英国アルバムの補完的性格が強いものであり、前項の「英国オリジナルアルバム」とはやや分けて捕らえた方がよい。

ベスト盤CD

これら3作は文字通りベスト盤なので、初心者や入門者も楽しめる。 (レコード時代の俗にいう「赤盤ベスト」。CDで1枚にしなかったのは、「レコードを再現した」という、発売元側の言い分と、「商業目的」という一部ファンの意見とに分かれている。初期のCDアルバムは、モノラル中心であったが、ここに収録されているアルバム収録曲と同曲の中には、ステレオ・バージョンも含まれている。シングル「抱きしめたい」ステレオ・バージョンもCD初登場。現在は、「ビートルズ1」にも収録。) (同じく「青盤ベスト」。「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」の観客の歓声のSEが除去されている。したがって、イントロのアコースティック・ギターがフィルインの形ではなく、最初のストロークから聞こえる。) (「プリーズ・プリーズ・ミー」が入っていないなどの一部ファンの不満もあったが、ほとんどの有名ヒット曲は網羅されている。収録時間もほぼCDの限界に近い。「どこかのチャートで1位になった曲をまとめた」というコンセプトで作られたベスト・アルバムなので、「ビートルズ2」を期待しても、ヒット曲の多い彼らなので作るのは可能ではあろうが、リリースは期待しないこと。)

CD化になってからの新コンセプトによる作品

(文字通り、BBC音源での初期のライブの様子をピックアップしてまとめたもの。時代的に古い音源であるため、多少音質に難のある曲もある。カバー曲も多いが、初期に関しては、ライヴバンドだったという側面がよくわかる。実際には、この5~6倍以上の音源が残っているはずである。)

(これら3作は、貴重なテイクやライヴ・バージョン、未発表曲も収録されているとはいえ、弾き語りデモや編集バージョンや練習段階のテイクなども含まれるため、初心者にはあまり薦められない。)

(映像の方もDVDを中心に同時発売。アナログ時代から既発売のアルバム、『イエロー・サブマリン』との違いは、本編後半部を参照。)

(現時点での最新リリースCD。現在発売されている『レット・イット・ビー』は、同項でも触れたように、一度オクラ入りしてしまった多量の音源からフィル・スペクターが、選曲しテープ編集、当時のテクノロジーで様々な加工をし、他の音をかぶせて、「商品として作り上げたもの」であるために、「そういった虚飾を取り除いた」といううたい文句の元で発売。アンソロジー3にも、ポールが当時主張していたバンド演奏だけの『ロング・アンド・ワインディング・ロード』のバージョンが収録されているが、それとは別の映画「Let It Be」で使われたテイクが本アルバムに入っている。「ネイキッド」は「直訳では『裸の』という意味ではあるのは、辞書を引けばわかるであろうが、このタイトルに合わせて意訳的に強引に訳せば『ありのままの姿の、本来あるべきであった形の』という意味くらいが妥当」か。実際には、現在最先端のテクノロジーが駆使されており、今風のイコライジングで音のメリハリを加え、各演奏パートのいい部分を1曲の中で別々に組み合わせて、各テイクのテンポや、場合によっては、各楽器の1音のずれまでも修正されているようにも聞こえる。コンピューター処理がなされているはずだ。しかし、ビートルズの底力が聴いて感じられる。初めて、「ホワイト・アルバム」と「アビーロード」とが、音で繋がった感がある。)

シングル

(英国でリリースされたもの、 + = アルバム未収録)
邦題は日本で発売されているCDの表記にしたがった。

映画

ビートルズが主演、または製作したもの。



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