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イラク

イラクは、正式名称イラク共和国(جمهوريّة العراقアラビア語,Jumhuriyah al Iraqアラビア語転写,Republic of Iraq英語)で、中東西アジアである。首都バグダード(バグダッド)。サウジアラビアクウェートシリアトルコイラン および ヨルダン と隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ。世界で 2番目の原油産出国である。著名なイラク人は「イラク人一覧」を参照のこと。

Table of contents
1 基礎情報
2 近代以前の歴史
3 近代
4 地理
5 経済
6 文化
7 外交
8 関連記事
9 参考文献

基礎情報

近代以前の歴史

現イラクの国土は、歴史上のメソポタミア文明とほとんど同一である。メソポタミア平野はチグリス川とユーフラテス川にはさまれた肥沃な三角地帯(FIXME、歴史上の正しい名前に)として知られており、紀元前4000年ごろからシュメールアッカドアッシリア、そしてバビロニアなど、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。

西暦 634年、Khalid ibn al Walied の指揮のもと約18,000人のアラブ人ムスリム(イスラム教徒)からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国(サーサーン朝)軍兵士はその数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、ビザンティン帝国への絶え間ない出征のために疲弊していた。サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえしていた。イスラム教徒がこの地を征服したのは紀元後7世紀のことである。8世紀にはアッバース朝の帝王がバグダッドに首都を設立し、これはのちにオスマン帝国に対する前哨基地となった。

近代

イラクという国家は西欧帝国主義の産物である。イラクの境界が引かれたのは第一次世界大戦末のことで、イギリスフランスがオスマン帝国領の中東地域を分割支配する協定を結び、そのためイラクおよびクウェートの地域はイギリスの植民地にされてしまった。後にイギリスの支配政策によって、クウェートはイラクから分断され、1990年の悲劇につながることになる。

地理

国土はトルコとイランの国境にある海抜 3000メートルの山岳地帯から ゆるやかな下り坂になっており、最終的には南東にある葦のはえた沼地に向かっている。 国土のほとんどは砂漠か荒れ地である。北東部にある山々は山脈の一部で、 これは
バルカン半島から東にひろがり、トルコ南部、イラク北部、 イランおよびアフガニスタンを経由して最終的にヒマラヤ山脈で 終わっている。

平均気温は、7月には摂氏 48℃以上まで上がり、 1月には氷点下近くまで下がる。 雨期はおもに12月から4月にかけてである。 年間の平均降水量はおよそ100〜180ミリ程度。 北部の山岳地帯では中部および南部の砂漠地帯よりも あきらかに降水が多い。

経済

イラク経済のほとんどは原油の輸出によってまかなわれている。古くから外貨の 95% がこの原油の交易によってもたらされていた。8年間にわたる イラン・イラク戦争 による支出で 1980年代には金融危機が発生し、イランの攻撃によって原油産出施設が破壊されたことから、イラク政府は支出をおさえ、多額の借金をし、のちには返済を遅らせるなどの措置をとった。イラクはこの戦争で少なくとも1000億ドルの経済的損害をこうむったとされる。1988年に戦闘が終結すると新しいパイプラインの構築や破壊された施設の復帰などにより原油の輸出は徐々に回復した。

1990年8月、イラクのクウェート侵攻により国際的な経済制裁が加えられ、1991年1月に始まった多国籍軍による戦闘行為で経済活動は大きく衰退した。イラク政府が政策により大規模な軍隊と国内の治安維持部隊に多くの資源を費したことが、この状態に拍車をかけた。

1996年12月に 国連の 石油と食糧の交換計画実施により経済は改善される。6ヵ月周期の最初の 6フェーズではイラクは食料、医薬品およびその他の人道的な物品のみのためにしか原油を輸出できないよう制限されていた。1999年12月、国連安全保障委員会はイラクに交換計画下で人道的要求に見合うだけの原油を輸出することを許可した。現在では原油の輸出はイラン・イラク戦争前の3/4 になっている。医療と健康保険が安定した改善をみせたのにともない、一人あたりの食料輸入量も飛躍的に増大した。しかし一人あたりの生活支出はまだイラン・イラク戦争前よりも低い。

文化

外交

イラクと中東諸国との関係は多様である。

1990年に入ってイラクは、80年から88年にかけての戦争相手であったイランと国交を回復する。だが、両国の間にはまだ解決されるべき課題が残されている。その中には戦争捕虜の交換や、相手国内の武装反政府集団に対する援助をめぐる問題も含まれる。

エジプトは1979年にイスラエルとの和平協定を結ぶことになり、アラブ諸国に波紋を巻き起こすことになるが、イラクはそれに先立つエジプトのアンワル・アッ=サーダート大統領の和平へむけた取り組みを批判したことがきっかけで、1977年にエジプトから国交断絶を申し渡されていた。1978年にはアラブ連盟の会議はイラクの首都バグダッドで開催され、エジプトのアラブ連盟からの除名措置がとられる(エジプトの地位は1987年に回復される)。

しかしながら、エジプトはイラン・イラク戦争に際して、イラクに物的、外交的援助を行い、これがもとで両国の絆は深まることになる。1983年以来、イラクはエジプトはアラブ諸国の中でしかるべき役割を担うべきだと度々主張し、1984年のイスラム諸国会議機構におけるエジプトの地位回復などを率先して行ってきた。

イラクとエジプトの関係は更に、1990年にイラクのクウェート侵攻に伴って敵対的なものになる。これはエジプトがイラクに反対し、アラブ合同軍などにも参加したためである。湾岸戦争後は、エジプトはイラクの石油と食糧の交換計画の最大の取り引き先であり、両国の関係は改善に向かった。

シリアとの関係は、アラブ諸国内での勢力争いや互いの国への内政干渉問題、ユーフラテス川の水域問題、石油輸送費、イスラエル問題への態度などをめぐって対立を続けた。シリアはイラクのクウェート侵攻に際して国交を断絶し、1990年代は冷めた関係が続いた。2000年になってバッシャール・アサドが大統領になると石油の密輸をめぐる絆が強くなったが、外交面では依然として距離をおいた関係になっている。

ヨルダンとの関係は1980年、イラン・イラク戦争の勃発に際してヨルダンがイラクへの支持を表明したことから良好なものになっている。ヨルダンは湾岸戦争においてもイラクを支持、両国の関係を強めることになった。2000年に現在の国王が即位して以来、両国の関係はやや停滞気味にあるが、依然として良好なものにとどまっている。

イラクは中東戦争に際しては1948年、1967年、1973年に参戦し、イスラエル問題については強硬な態度をとることが多い。イラン・イラク戦争中は、イスラエル問題についての態度を軟化させ(この時期、イラクはアメリカの支援を受けていた)、1982年のレーガン米国大統領による平和交渉にも反対せず、同年アラブ首脳会談によって採択されたフェス憲章にも支持を表明している。しかし、戦後は態度を硬化させ、特に湾岸戦争以後は、イスラエルの全面的な解消を度々提唱している。湾岸戦争の際にはイラクは、クウェートからの撤退の条件としてイスラエルの解消を要求したこともあり、イスラエルの民間施設をスカッド・ミサイルによって爆撃したこともあった。

関連記事

参考文献


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