台湾
国家としての台湾は、中華民国も参照のこと。
地理
台湾(Táiwān)は、日本の琉球諸島の西方海上に位置し、面積は九州程度の島である台湾島と、周辺諸島(膨湖諸島・蘭嶼島など)から構成される、人口2300万の地域である。西端の金門島は中国本土から数キロの所にあり、南端のガランピからはバタン海峡を隔ててフィリピンに到達する。
島の中央を玉山(日本名・新高山)を最高峰とする山脈が通り、西部は平野、東部は山地とに大別される。
最大の都市は北部盆地に位置する台北であり、中華民国の首都機能を果たす。名目上は中華民国の台湾島を管轄する地方自治体である台湾省政府は台北ではなく台湾島中部の中興新村におかれている。南部には第二の工業都市高雄と第四の古都台南があり、中部は第三の都市台中、東部では花蓮と台東が代表的な都市である。
行政区分については中華民国の行政区分を参照の事。
鉄道・道路・航路ともに発達しており、日帰りで一周することも可能である。
鉄道は国営の台湾鉄道が台湾を一周しており、特急自強号、準特急莒光号、急行復興号、快速に相当する平快列車、そして普通車が各都市を繋いでいる。また電車と呼ばれる通勤電車が各駅で大都市近郊を走っている。
台北には捷運と呼ばれる地下鉄や新交通システムがネットワークを作っており、高雄も建設中である。
台北と高雄を結ぶ西部幹線では、日本の新幹線システムを導入した高速鉄道が建設中である。(新幹線の初の海外受注である)
高速道路には基隆・台北と高雄を結ぶ中山高速公路と、台北付近でそれを補完する第二高速公路の二本が存在し、数多くのバス会社が高速バスを走らせている。中には二列シート・バスガール・個人TV・按摩椅子つきという豪華な車両も存在する。
都市部もバスが発達しているが、車両が古かったり、バス停が危険だったりと、利用者は必ずしも多くはない。タクシーや自家用車の利用率が高いが、運転マナーが無に等しいので事故が多い。
航空機は主要都市を結んだフリークエンシー・サービスを提供している。割引チケットを使えば鉄道やバスと遜色ないため、人気は高いが事故も多い。中華航空は事故多発航空会社として有名である。ちなみに向田邦子が死亡したのは台湾での航空事故であった。
亜熱帯性モンスーン気候であるが、北部は夏季を除けば比較的気温が低く、しのぎやすい。南部は回帰線の南側であり、冬季以外は30度を超えることが多い。台風の襲来も多いが、夏季には「西北雨」と呼ばれる猛烈な夕立も多い。
国民の95%以上は漢民族、残りは漢民族移住以前から台湾に居住する原住民である。漢民族はさらに17世紀頃に移民してきた本省人と、戦後移民してきた外省人に大別され、本省人は移民元地からさらに福建系、客家系に区別される。原住民は平地に住んで漢民族と同化が進んだ平埔族と高地や離れ島に住む9族(高山族、高砂族)に分かれる。
台湾にはフォルモサ(formosa)という別名が存在する。これはポルトガル語で台湾を指す言葉で、「麗しの島」という意味を持つ。伝承では初めて台湾を見たポルトガル人船員がその美しさに感動して「Ilha Formosa(麗しの島)」と叫んだ事に始まると言う。
公用語は中国北京語(国語と称される)であるが、台湾語が広く使われ、場所によっては客家語、原住民の諸言語も使用される。ビジネスや文化的な影響により英語、日本語の普及率は高い。また過去の経緯から日本語を話す高齢者も多い。
鉄道や空港の案内は英語、国語、台湾語、客家語の4つで行われ、TV番組でもこれらの諸言語が花盛りである。
注:台湾に固有な言語という意味から、台湾語は客家語、原住民諸語をも意味するのではないか、という指摘から、最近では福建系住民の言語を台湾語と呼ばず、代わりにホーロー語(福佬語、河洛語)と呼称するケースが増えてきている。福佬とは福建系住民の出身地である福建南部をさす言葉、河洛とは黄河と洛水、即ち中原地方のことで、福建系住民はそこから南下したとの伝承をもつ。
なお閩は虫・蛇の意味で蔑称的なことから、閩南語の表記は廃れつつある。→ポリティカル・コレクトネス、多文化主義。
長らく続いた蒋介石親子政権が終わりを迎え、副総統であった李登輝が政権を掌握すると、彼は台湾の民主化を推し進める。戒厳令は解除され、言論の自由、結社の自由、言語の自由(それまでは公共の場では中国語しか使用が許されなかった)が保障され、終任議員(死ぬまで職が確保されている国会議員)が解雇された。一連の民主化政策は、最終的に総統民選に結実し、1996年、中国の歴史で初めて投票によって李氏は再び国家元首に選ばれた。
民主化の結果として、自治自決、台湾独立の民意が高まり、2000年の総統選挙においては、台湾独立を目標に掲げる陳水扁台北市長・民進党党首が当選した。また李登輝らが中心となり国の正式名称を中華民国から台湾へ変更する運動、台湾正名運動も起こりデモも行われるなど、中国人ではなく台湾人としてのアイデンティティを持とうとする動きも活発化した。
しかし、一方では台湾独立に反対する国民党や対岸中国との平和統一を訴える親民党の勢力も強く、政局運営は困難である。
隣国の中華人民共和国が、台湾における中華民国の主権を認めていない中華人民共和国ため、台湾では徴兵制がしかれ準戦時体制にある。そして正規軍約30万人・予備役約350万人という、人口2000万人の国としては大規模な軍隊を有する。
ベトナム戦争の際、アメリカは戦略物資を台湾から調達し、そのため台湾経済は飛躍的に発展し、台湾経済はこの頃より日本からアメリカ指向にシフトする。
台湾はそこで得たドルを電子工業に投資し、やがてIT景気にのって、マザーボードのシェア世界一、外貨準備高世界一というほどの発展を遂げる。
しかし中国やインドの台頭によって、空洞化が進行し、IT産業も失速する中、台湾は次の投資先を求めて模索している段階である(2003年)。政府はバイオを重要視しているが、バイオがITほどの経済規模を見込めるのかどうか、疑う声も強い。
日本経済の下部組織として発達してきた台湾経済は、日本経済とコンパチブルな面が強い。即ち技術力、工業生産力を利用し、世界市場で優位に立てる製品を開発提供することによって、外貨を獲得する加工貿易が基本である。
しかし日本と異なる面も多い。それは漢民族の伝統、米国の影響によるものと考えられるが、代表的なものは起業指向であろう。台湾では有能な人ほど起業を志し、それが経済に活力と柔軟性を与えている。個人主義的なのであるが、反面、社会道徳の弱さという弱点ももつ。
また華僑ネットワークに支えられた、全世界ネットを駆使した世界戦略も台湾独特の強みである。アメリカや日本で注文をとり、中国やベトナムに製造させる仲介的戦略も、この華僑ネットを利用している。
台湾の存在が中国の文献に記載されるのは隋唐時代からであるが、当初は小琉球と称されていた。そのため大琉球とよばれていた沖縄と混同される事も多かった。しかし後に台湾と呼称されるようになる。台湾とは原住民の言語の「タイユアン」(来訪者の意)という言葉の音訳とされる。
台湾が本格的に開発されるようになったのは明代になってからである。当時の台湾は倭寇の根拠地の一つとなり、やがて中国人・日本人が恒久的に居住するに至った。
台湾の戦略的重要性に気づいたのは、漢民族だけでなく、オランダやスペインもそれぞれ台南と基隆に要塞を築き、貿易・海防の拠点とした。日本への鉄砲やサビエルによるキリスト教伝来も、おそらくは台湾を経由してきたのだと思われる。
日本もそのころ台湾に対して領土的な興味を持っていた。豊臣秀吉は「高山国」宛に朝貢を促す文書を作成し、原田孫七郎という商人に台湾へ届けさせた。(高山国とは当時台湾に存在すると考えられた国名。実質的には存在せず朝貢の目的は果たせなかった)また1608年には有馬晴信が、1616年には長崎代官村山等安がいずれも成功はしなかったものの台湾へ軍勢を派遣した。
明末になると、明朝は清朝に侵略され、鄭成功は侵略に抵抗して奮戦するが、力及ばず、ついに軍勢を率いて台湾に逃げる。彼はオランダを追放して台南を根拠地とし、台湾開発に乗り出した。彼自身の目標、即ち清朝撲滅はついに果たせず、彼の政権も60年後には清朝に滅ぼされてしまうが、鄭成功は今なお台湾人の精神的支柱(開発始祖、「ピルグリム・ファーザー」)として高い地位を占めている。なお鄭成功は清との戦いに際したびたび徳川幕府へ軍事的な支援を申し入れていたが、当時の情勢から鄭成功の勝利が難しいものであると幕府がわに判断され支援は実現しなかった。しかしこの戦いの顛末は日本にもよく知られ、後に近松門左衛門によって国性爺合戦として戯曲化された。
清代においては、対岸の福建からの移民が相次ぐが、気性の荒い海賊、食いはぐれた貧窮民が多く、また女性の渡航が許されなかったこと、マラリア・デング熱などの熱帯病、原住民との葛藤、台風などの水害が激しかったことから、内乱が相次いだ。
女性が居なかったために移民は平地に住む原住民(平埔族)を妻とし、急速に混血が進んだ。
台湾は福建省の一部として統治され、台湾省が独立するのは清末になってからである。
清末になって欧米列強によって台南も開港されると、清朝は漸くこの島に眼を向けるようになり、鉄道も施設された。(基隆=台北間)
しかし台湾島民は清朝の判断に反発し「台湾民主国」を作り日本への割譲に抵抗した。しかし日本軍が台北への進軍を開始すると、あっというまに軍は総崩れになり台湾民主国も崩壊した。だがその後も農村を中心に日本への抵抗運動は続き、日本軍はそれに対し厳しい弾圧を行った。
そのため、植民地時代を通して、台湾のインフラは飛躍的に整備され、現在台湾の教育・民生・軍事・経済の基盤は日本によって建設されたと言っても過言ではないだろう。しかし、その努力は日本への同化のために行われたものであった。戦争になると台湾の食料物資は内地に供出せられ、高雄には飛行基地が建設され、さらに台湾人も兵士や労働力として使用された点を忘れてはならないだろう。
また原住民統治はおおむねも安泰だったが、「霧社事件」という反乱もおきた。日本人の横暴に憤激した原住民が日本人移民を殺害した事件だが、日本は首謀者のみならず、その部族の15歳以上の住民を捉えて処刑した。
戦後台湾には中華民国政府により戒厳令が敷かれ言論の自由が抑制されたこともあり、日本植民地時代については「暴虐な統治」という評価以外は認められなかった。しかし近年民主化が進行したことにより従来とは異なり、植民地時代をある程度肯定的に評価する見解も出てきた。
その代表的な例が台湾で新しく作られた歴史教科書「認識台湾」である。認識台湾は植民地時代について、台湾島民への弾圧に触れる一方で多岐にわたるインフラ整備などに言及。同時代を「台湾にとって苛烈ではあったが、欠かす事のできない時代」と総括した。
戦後、日本の代わりに蒋介石率いる中華民国政府がやってくるが、蒋介石は恐怖政治を敷き、知識階層・共産主義者を中心に数万人を処刑し、予め台湾人の抵抗意識を奪い、その後国共内戦で敗れた兵隊を引き連れて、台湾に移住してくる。国民党は政治経済教育マスコミなどを独占。それまで台湾にいた本省人と、政権中枢を握る新来の外省人との対立から1947年2月28日、本省人の民衆が蜂起する2・28事件(二二八事件)が起きた。
圧迫された本省人はなおも政治活動を展開していたが、戒厳令がしかれ、知識人は投獄・暗殺される時代が続いた。その間、活動家は日本やアメリカに逃れることになる。陳総統は6年間投獄されていたし、陳夫人はテロによって足の自由を奪われた。日本へ移民した活動家として有名なのは金美齢、台湾400年史を現わした史明がいる。
一方国民党内部に入り込んで、内からの改革を目指そうとした一派も存在し、李前総統はその代表格である。蒋介石が死ぬと息子の経国が跡をついだが、彼が急死すると、副総統であった李は政権を掌握し、国民党に忠実を装い、徐々に政治の本省人化を進めていく。
一方、対外的には中国の復権に伴い、台湾はアメリカから国交を断絶され、日本などの世界各国もそれに続いた。その一方で、台湾は反共の砦としての地位をアメリカに認めてもらい、また経済的な実利を得ることで生存していく道を選択する。それに呼応し、アメリカは第七艦隊を台湾海峡守備に回し、台湾防衛を行動に表した。
民主化の結果として、今後台湾では独立への勢いが加速するのは避けられないと思われる。一方、自信と武力を増しつつある中国も、台湾独立を阻止する政策を変える理由は見当たらない。台湾をスケープゴートにすることによって、中国統一が保たれるからであり、このような中国政府の意思は国内の各自治区に対する態度と同様で一貫している(独立運動の絶えない新疆・チベットでも中国政府の意図は変わらない)。また台湾独立にはアメリカも賛成を示していない。
このことからすると、政治的利益よりも経済的利益を重んじる台湾人は独立を明言するよりも、実質的な独立を強化する方向を選ぶだろう。おそらく、対岸の福建を巻き込んだ経済圏を自立させ、中国政府から経済的に自立する方向に進むと思われるが、中国大陸に深く食い込むことは、逆に中国政府に支配されることでもあり、台湾人にとって楽観はできない状況にある。
福建系住民は福建文化に、客家系は(広東)客家文化に、外省人は北京文化に、原住民はマレー・インドネシア文化に属し、それぞれが別々に存在して混交は少ない。顕著な現象としては、本土で廃れた伝統文化が台湾には色濃く残っていることである。これは漢族のみならず、原住民であるアミ族でも見られる現象で、離れ島としての台湾の文化的位置づけを現しているものといえよう。
福建系の伝統文化には布袋劇(人形劇)や南曲(台湾オペラ)がある。外省系としては、故宮博物院が有名である。これは元々北京紫禁城にあった中国歴代王朝の財宝を、国民党が台湾に運び込んだもので、中国文明の至宝が集まっているといわれる。
外来文化としては日本の影響が大きい。古くは温泉、演歌、日本酒、おでんから新しくはカラオケ、Jポップ、アニメまである。これら日本文化が好きな若年台湾人を哈日族と呼んでいる。アメリカの影響も強く、また近年韓国他の文化も入ってきている。
宗教としては、仏教・道教・儒教が盛んである。仏教は仏光山と慈教の2派が優勢であり、道教は王爺や媽祖信仰が多い。儒教は孔子廟程度でさほど目立たないが、漢民族の道徳観念には儒教が決定的な働きをしていることが多い。
宗教も文化と同じく、中国本土で廃れた宗教儀式が残存している。特に道教系の祭礼は大掛かりなものが多く、一週間に渡って街を練り歩き、数千万円相当の木造船を焼却する「ショウ祭」も行われている。
また占いや祈祷を行うシャーマン「童乩」も健在である。
葬儀や婚礼も大掛かりであり、特に葬儀のパレードは楽隊まで繰り出して華やかである。交通
気候
民族
台湾の別名
言語
政治
国防
経済
戦前、日本の食糧補給基地としての役割を与えられていた台湾では、その食料を保管・加工する軽工業が芽生えていた。光復後、蒋介石政権はその軽工業を発展させ、重工業化する政策をとる。経済特区や政府主導による経済プロジェクトが全国に展開され、特に日本とのコネクションを利用した日本の下請け的な工業が発達する。歴史
前近代の台湾
台湾の原住民は、フィリピン・インドネシア方面からの移民とされる。彼らは十数とも二十とも言われる多数の民族に分かれ、台湾の各地に居住していた。日本植民地下の台湾
台湾民主国の建国と崩壊
しかしこの辺境の島を清朝は重視せず、日清戦争に負けると、簡単に日本に割譲してしまった。台湾統治政策の変化
当初は武官が台湾総督に任命され独立運動や抵抗運動に対し強い圧力をかけていたが、政情が安定化するにつれ文官が統治において主導権を握るようになった。その結果台湾総督に任命されるようになった。台湾は日本にとっては初めての植民地であるので、日本政府はかなりの情熱とカネをこの島に注いだ。後藤新平をはじめとした人材もその一つであり、日本は欧米から一目置かれるような植民地経営を目指していたと言われる。戦争と皇民化教育
日本人学校と台湾人学校の区別、皇民化教育・創氏改名、支那人=豚観に代表されるような差別意識も根強く存在していた。(皇国史観の項目を参照)
なお支那人=豚観については田川水泡ののらくろにおける世界観が影響していると思われる。戦後台湾社会による評価
戦後の台湾
文化






