前漢
歴史
紀元前3世紀、劉邦によって建てられた中国の統一王朝。元々は中国四川省の一地方をさす言葉であったが、劉邦がそこに封じられ、やがて天下統一したことから、地方名から中国全土、さらには中国人・中国文化そのものをさす言葉になった。
成立から王莽による簒奪までを前漢、光武帝による再興から魏朝に滅ぼされるまでを後漢と呼ぶ。中国においては、その都の位置からそれぞれ西漢(長安)、東漢(洛陽)と呼ばれる。
漢王朝の支配は朝鮮から中央アジア、モンゴルからベトナムにまで及ぶが、実際には華北がほとんどで、後は植民地的なものであったらしい。前漢はその成立当初から匈奴の侵略に悩まされ、一時は劉邦自身が包囲攻撃される危機を迎えた。
文帝・景帝皇帝は静かに戦乱によって衰えた民力の回復を図り、武帝はその基盤を元に匈奴攻略を試みた。衛青、霍去病、李広利らの将軍を遣わし、打撃を試みたが、決定的なダメージを与えることはできなかった。しかし、匈奴は漢との抗争、内紛から疲弊し、分裂してその勢力は衰えた。
一方の漢もまた、軍事負担によって重税がかされ、農民は疲弊し、小作農化が進行した。小作農は豪族の支配下に入り、地方に豪族が割拠する状況が出現するようになった。
この豪族の力を借りて光武帝は漢王朝を再興をしたため、後漢の皇帝は豪族の意向を無視できなくなり、弱体化した。宮廷では豪族と、宦官とが勢力争いを繰り返し、内乱や飢饉が頻出する。その最たるものが黄巾党の乱であり、この時点で後漢は事実上、統治機能を喪失した。
後漢自体はそれからも命脈を保つが、最後は曹操の子、曹丕によって滅ぼされた。
日本においては金印「漢倭奴国王」にあるように、この時代から中国との交流があり、稲作、製鉄、文字など、様々な技術文化がもたらされたと考えられる。
影響
漢王朝の支配は前後400年にわたるため、中国=漢、との認識が固定化した。漢字、漢民族などにその顕れを見ることができる。またこの時点で古代中国文化が完成したため、崇拝をこめて漢王朝が回顧されることが中国では一般である。前漢の皇帝






