数学者
数学者 とは、数学を学び、研究している人物のことである。学ぶことだけでなく研究という言葉もここでは強調して置きたい;この分野を学習したことのない人には、数学では全てのことが既に知られているという誤解が多いからである。事実、数学における新しい発見の出版は、数学や数学を応用する分野の何百もある科学雑誌の中でかなりの割合を占めている。
一般に信じられているのとは異なり、数学者とは、数を足したり引いたり、おつりの計算が素早くできることに長けているわけではなく、それよりも、もっと別の知的職業の徒である。——実際、最高の数学者の内のいく人かは、そういったことに不得手であることで有名である。
数学者は一般に、計算の問題を起原として生じるような、しかし今は数学自身の問題として抽象化されている様式(パターン)を見つけ、記述することに興味を持っている。数学者の印刷された研究からは、しばしば公理と呼ばれる、いくつかの与えられた仮定から最初のアプローチが始まるように見える;そして仮定から従う事実を論理の厳密な規則に従って証明することへと進む。しかしこれは、最終的に印刷される出来上がったもののことであって、進行中の研究のことではない。
数学者は、(ほとんどの場合)根本的な疑問が人間の知性の置かれた状況を越えて仮定されている、という点で哲学者とは異なる;「2+2 = 4 は正しい命題である」というのは、人間の知性がそれを述べる、ということを必要とせずに存在する。全ての数学者が上に述べたことに完全に賛成するわけではない;数理哲学者はこの問題に対して異なるいくつもの見解を持っている。ある人々は、上のような見解は、安易なプラトン主義だとして非難の的とする。
数学者は、彼らの結論を強固にしたり否定したりするために実験をすることがないという点で、物理学者や工学者のような自然科学者とは異なる;全ての科学の理論は真理を近似することの試みであるであるのに、数学で述べられることは真理を把握する試みである。ある命題がいくつかの仮定の集まりから論理的に証明されたり、反例を挙げられたりしていない時、それは予想と呼ばれ、それとは反対に最終的な目的地——全く正しいものを定理という。自然界において新たな情報が発見されるといつでも変更を被るかも知れない物理理論とは異なり、数学の理論は"静的"——一度命題が称賛される定理の地位を得れば、それは永遠に正しいままである。
しかし、この見解にも問題はある。大きな問題点は、数学は確かに歴史的にも、現在においても、ある種の真理を希求しているのは事実であるが、真理というのは、数学が数学として扱える範囲を逸脱していることである。古代ギリシャにおいては、真理というのは、論戦において論駁されないことだとする感覚がある程度あった。実にこのことが少なからぬ要因となって、彼らの精緻な証明や公理論的な数学のとらえ方を発明したのである。しかし、今日真理をこのように捕らえるのはそれほど一般的ではない。真理の概念が歴史的に変わってしまうものであるのにも拘らず、数学が必ず心理をつかみ続けることができるとはたして主張できるであろうか。
更に、矛盾という問題もある。数学において、矛盾というのはその存亡にかかわるほど大きな問題である。たった一つでも矛盾が見つかれば、そこからどんな命題も(またその否定も)証明されてしまうことが古くから知られていた。つまり、矛盾が見つかれば、それまで精緻に組み立てられてきた証明は全て水泡に帰すのである。この問題に関して、ある数学者(ダフィット・ヒルベルト)は数学全体の無矛盾性の証明を試みる壮大な計画を立てた(ヒルベルト・プログラム)。彼の試みは、数学の証明を少数の記号と簡単な公理を用いて形式化し(形式主義)、証明そのものを将棋のようなゲームとみなすことで、そのゲームをどれだけ続けても矛盾に到達することはできないということを証明しようとするものであった。このように、数学自体を対象としてある数学を展開することは超数学(メタ数学)と呼ばれる。彼と彼のグループ(例えばジョン・フォン・ノイマン、アッカーマンなど)のその試みは、うまくいきそうに思えたのだが、そしてヒルベルト自身はそれが可能であることを疑わなかったのだが、有名なゲーデルの不完全性定理(1931年)によって、その計画を当初の理想的なかたちで完結させることは不可能であることが分かった。このゲーデルの定理では、自然数論を含む数学を、その内部において無矛盾性を示すことが不可能であることを主張するものであった。
しかし、それで全ての望みがついえたわけではなく、多少目的を弱めることによって、つまり有限の立場を広げて解釈することで、自然数論の無矛盾性を示すという試みは、実際ゲンツェンによって達成された(1936年)。<--fix me(有限の立場の理解について自信がない)。この立場では、自然数論を超えるような推論が許されるが、しかし、それは我々の直観(特に数学的帰納法。より強い超限帰納法も含まれる)に強く基づいているものであり、それによって誤った結果がでてしまうということは、すくなくとも心理的にはあり得ないように感じられる。とはいえ、これはあくまでも主観的な解釈であり、論理的な根拠のあることではない。自然数論において既にこのようであるから、実数論、更には数学がその基盤をおいている集合論に関しては一層弱い心理的な安心感しか持つことはできない。現在一般的に用いられる公理的集合論はZF(ツェルメロ・フレンケル)と呼ばれるものである。これにさらに、選択公理を含めてZFCとすることもある(むしろこちらの方が一般的である)。現在までに、この集合論に関しての矛盾は発見されていない。しかし、今後未来永劫矛盾が見つからない、またそのようなことは起こり得ないということは決して断言できない。
この事柄に対するある楽観的な見方は、たとえ矛盾が発見されたにせよ、うまく公理を取り替えることによって、既存の数学をほとんど犠牲にすることなく、矛盾を取り去ることができるというものである。このことは、上に述べたことには反していない。実際、かつて集合論が形式化される以前には、素朴な集合論には矛盾の生じることが認識されていたが、その後その矛盾は克服され、しかもカントールの結果も犠牲になることはなかった。カントール自身は、集合論の矛盾が発見されてもそれに動揺することはなく、必ずその"困難"を克服できると信じていたようである。
更に、ある安心感を与える事柄は、数学がその三千年以上にわたる歴史のなかで、時にはそのとるべき道を外れることがあっても、結局着実な進歩を続けて来たという事実である。このことは、おそらく全ての数学者に前進へと向かわせる意欲を与えるものであろう。読者は、この見方が、上の数学と自然科学との違いを述べた箇所とは大きく異なっていることに注意されたい。ここで述べたことは、歴史的事実に基づく、純粋に帰納的な数学の真理に対する安心感である。例えば、これは本質的には次のものと同じである;「小学校を卒業すれば、誰もが自然数の足し算やかけ算を扱えるようになる。我々の社会はそれを基盤にしていて、しかもそのことによる問題は全く起こっていない。これほど多くの人々が、長い年月にわたって自然数を扱っていて、それでもなお問題が起こらないとなれば、自然数論に矛盾が存在し、かつそれが我々の自然数に関する認識を全く変えるように強要することは、まず考えられない。」
いくつかの科学の分野についての英語の古いジョークは数学とそれ以外の分野の考え方の違いをうまく表している。例えばこんな感じである。
- 工学者と物理学者と数学者がある晩ホテルに止まっていると、火事が起こった。工学者は起きて、煙を嗅ぎ付けた。彼は素早くゴミ箱をつかむと、それをバケツに使って、バスルームで水を汲んで、部屋の炎を消した。そしてゴミ箱に水を溜めて部屋の燃えそうなものに全て水をかけると、また眠り始めた。
- 物理学者は起きて、煙を嗅ぎ付けると、ベッドから飛び起き、紙と鉛筆をとって、炎をちらちら見ながら計算をはじめた。彼は正確に15.6リットルの水をゴミ箱に測りとり、炎に浴びせかけ、火は消えた。彼はにっこりとして、再び眠りについた。
- 最後に、数学者は起きて、紙をたくさんつかんで、一心不乱に書き始めた。炎を見ても、更に書き続けた。しばらくすると、彼の表情には満足の色が見えた。バスルームに入ると、マッチを付けて、蛇口を少しひねって消した。「ああ、解けた」と呟き、彼はまたうとうとし始めた。
関連項目
外部リンク
- The MacTutor History of Mathematics archive 詳しい伝記の素晴らしいリスト






