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明智光秀

明智光秀あけち みつひで、? - 天正10年6月13日(ユリウス暦1582年7月2日))は、戦国時代安土桃山時代武将

生年は不詳であるが、江戸時代に書かれた軍記文学『明智軍記』に記載された辞世の句とされる漢詩に「五十五年夢」とあることから1528年に推定されることもある。『明智系図』によれば、清和源氏の流れである土岐氏一族の明智氏の出自とされているものの、出自、前半生の経歴は、ともにはっきりしていない。

通説によれば、美濃国戦国大名斉藤道三に仕え、その死後浪人して足利将軍家、のち越前国の朝倉氏に仕える。越前に足利義昭が逃れてくると、光秀は京都に攻め上って義昭を征夷大将軍につけさせるよう織田信長に要請する使者に立てられた。一説に叔母が斉藤道三の夫人で、信長の正室斉藤道三娘(濃姫)とはいとこ関係であり、その縁を頼ったのではないかと推測されている。

信頼できる史料によると、1569年頃から木下秀吉(のち羽柴に改姓)らとともに織田氏支配下の京都近辺の政務にあたった。義昭と信長が対立し始めると、義昭とたもとを分かって信長の直臣となり、数々の戦功をあげて1572年近江国志賀郡を与えられ、坂本城を築城してこれを居城とした。

以後は近畿の各地で織田氏の合戦を転戦しつつ丹波国の経略を担当し、1580年までにこれを平定。丹波一国を与えられて丹波亀山城を築城するとともに、丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶ら近畿地方の織田大名の指揮権を与えられた。歴史家はこの地位を関東管領になぞらえて「近畿管領」とも呼ぶ。1581年には京都で行われた信長の軍事デモンストレーションである「馬揃え」の運営を任され、この職務を全うした。

1582年、羽柴秀吉の毛利征伐支援を命ぜられて出陣する途上の六月二日(西暦6月21日)、主君である信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して信長を自害させた。いわゆる本能寺の変で、なぜ光秀が信長を襲ったのか、さまざまな理由が指摘されているが、いまに到るも確固たる原因は不明である。

本能寺の変から11日後の六月十三日(西暦7月2日)、変を知って中国地方から引き帰してきた羽柴秀吉の軍と戦い、敗れる。同日深夜、坂本を目指して落ち延びる途上の小栗栖(京都市山科区)で落ち武者狩りの手にかかり殺された。




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