清
清(しん、英Qing Dynasty)は、清朝(しんちょう)ともいい、1636年から1912年まで中国を支配した最後の統一王朝。首都は北京。
満州族の愛新覚羅氏(アイシン・ギョロ氏)が立てた王朝で、満州語でダイチン・グルン(daicing gurun, 大清国)といい、中国語では大清帝国と号した。
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2 清の皇帝 3 清の元号 |
順治帝のとき、李自成の乱によって北京が攻略されて明が滅んだので、清はこの機に山海関以南に進出し、李自成を破った。こうして1644年に清は首都を北京に遷し、中国支配を開始した(「清の入関」)。しかし、中国南部には明の残党勢力(南明)が興り、とくに鄭成功は台湾に拠って頑強な抵抗を繰り広げた。清は、はじめ摂政王ドルゴン(ヌルハチの子)によって、のち成長した順治帝の親政によって、中国南部を平定し、明の制度を取り入れて国制を整備した。
順治帝に続く、康煕帝・雍正帝・乾隆帝の三代に清は最盛期を迎えた。
康煕帝は、即位後に起こった三藩の乱を鎮圧し、鄭氏の降伏を受け入れて台湾を併合して、清の中国支配を最終的に確立させた。対外的にはロシアとネルチンスク条約を結んで東北地方の国境を確定させ、外モンゴルとチベットを服属させた。
また、このころ東トルキスタンを根拠地としてオイラト系モンゴルのジュンガル部が勃興していたが、康煕帝は外モンゴルに侵入したジュンガル部のガルダンを破った。のち乾隆帝はジュンガル部を滅ぼして東トルキスタンを支配下においた。これによって黒竜江(アムール川)から東トルキスタン(新疆)、チベットに及ぶ現代の中国の領土がほぼ確定した。
こうして少数の満州族が圧倒的に多い漢族をはじめとする多民族と広大な領土を支配することとなった清は、中国王朝の中でも特有の制度を築いた。藩部と呼ばれた内外モンゴル・東トルキスタン・チベットでは土着の支配者が取り立てられて間接統治がひかれ、理藩院に管轄された。満州族は八旗に編成され、軍事力を担った。重要な官職には漢族と同数の満州族が採用されてバランスを取った。雍正帝の時代には皇帝直属の最高諮問機関軍機処が置かれ、皇帝独裁の完成をみた。
中国が繁栄を極めたこの時代には文化事業も盛んで、特に康煕帝の康煕字典、雍正帝の古今図書集成、乾隆帝の四庫全書の編纂は名高い。しかし、一方で満州族の髪型である辮髪を漢族にも強制し、文字の獄や禁書の制定を繰り返して異民族支配に反抗する人々を弾圧する暗い面があったことを見落としてはならない。
乾隆帝の60年に及ぶ治世が終わりに近づくと、乾隆帝の奢侈と十度に及ぶ大遠征の結果残された財政赤字が拡大し、官僚の腐敗も進んで清の繁栄にも陰りが見えはじめた。
イギリス商人は18世紀末にヨーロッパの対中国貿易競争に勝ち残って、中国の開港地広州で茶貿易を推進した。しかしイギリスは茶と代償に中国に輸出する商品を欠いたため、インドの植民地で生産したアヘンの密輸を開始し、中国貿易の不均衡を是正しようとした。その結果、アヘン貿易は次第に拡大し、中国社会でのアヘンの蔓延は清朝政府に無視しがたいほどになったため、1839年林則徐を欽差大臣に任命してアヘン貿易の取り締まりを開始した。
林則徐はイギリス商人の一般貿易を禁止する強攻策を取ったが、かえってイギリス人の強い反発を受け、かねて自由貿易を望んでいたイギリス政府はこの機会に武力で中国を開港させる決意を固めて翌1840年アヘン戦争を起こした。強力な近代兵器をもつイギリス軍に敗北した清は、1842年イギリスと南京条約を結んで香港の割譲や上海ら五港の開港、領事裁判権の承認を含む和平条件を認めた。
しかし、イギリスの対中国貿易はこの後も伸び悩んだので、イギリスは1856年にイギリス船アロー号の水夫を清の官憲が逮捕した事件を口実にアロー戦争を起こし、天津ら十一港の開港、公使の北京常駐、キリスト教布教の自由などを清に認めさせる北京条約を結んだ(1860年)。これにより、外国商品の中国流入が進みはじめた。
この戦争と同時期には清国内でも太平天国の乱が起こり(1851年 - 1864年)、清の支配は危機に瀕した。乱の末即位した同治帝の母西太后が政権を握ると、曾国藩・李鴻章ら太平天国の鎮圧に活躍した漢人官僚が力を得て、王朝の根幹の制度を維持したままヨーロッパの技術を導入する洋務運動を開始した。
1894年、朝鮮で東学党の反乱事件(甲午農民戦争)が起こり清が出兵すると、朝鮮の独立を願う日本も対抗して出兵して日清戦争に発展したが、清の敗北に終わり、洋務運動の失敗が明らかになった。
これに対し、康有為ら若い知識人階層は、日本の明治維新にならって清も立憲君主制を取り国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱えはじめた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取することに成功するが、西太后率いる保守派の反動にあって打倒された。
1899年、反西洋・反キリスト教を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンにかかげて外国人を襲いつつ北京に進出した。翌1900年西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京進駐を認める北京議定書を結んで屈服した。こうして中国の半植民地化はますます進んだ。
20世紀に入ると、日露戦争の影響もあって清朝政府はついに近代化改革に踏み切り、科挙を廃止し、六部を解体再編し、憲法発布・国会開設を約束し、軍機処を廃止して内閣を置いた。しかし、清は人心を失いつつあり、孫文らの革命勢力が次第に清打倒活動を広げていた。1911年、武昌での軍隊蜂起をきっかけに辛亥革命が起こり、清は完全な内部崩壊を迎えた。
翌1912年1月1日、南京に中華民国が樹立された。北京の清朝最後の皇帝溥儀(宣統帝)は2月12日、正式に退位し、ここに清は完全に滅亡した。
清は、前皇帝が死去して新皇帝が即位すると翌年1月1日をもって改元する一世一元の制を明から引き継いだので、元号は各皇帝につき一つづつである(在位中に改めて大清皇帝に即位し改元したホンタイジは例外)。順治帝以降の入関後の各皇帝は廟号・諡号をもって呼ばず、その皇帝の時代の元号に「帝」をつけて呼ぶことが慣例になっている。
清の歴史
清の勃興
17世紀初頭に明の支配下で、中国東北地方に住む女真族の統一を進めたヌルハチ(太祖)が、1616年に明から独立して建国した後金国が清の前身である。その子のホンタイジ(太宗)は山海関以北の明の領土と内モンゴルを征服し、1636年に元の末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽を譲られ、大清皇帝として即位するとともに、女真の民族名を満州に改めた。清の最盛期
半植民地化
清の滅亡
清の皇帝
清の元号






