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(みん、1368年 - 1644年)は、明朝ともいい、中国の歴代王朝の一つ。大明帝国と号した。朱元璋がを北へ追って建国し、その滅亡後にはに取って代わられた。

Table of contents
1 明の歴史
2 明の皇帝
3 明の元号
4 関連項目

明の歴史

朱元章の建国

モンゴルの建てた元朝は14世紀に入ると帝位の相続争いが起こり、統治能力が低下した。さらに疫病と災害が相次いだため、白蓮教徒が1351年に紅巾の乱を起こすと反乱は瞬く間に広がった。紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋(太祖・洪武帝)は南京を根拠地に長江流域の統一に成功し、1368年を建国した。洪武帝は建国するとただちに北伐を開始し、元朝の順帝(トゴン・テムル・ハーン)は大都(北京)を放棄してモンゴル帝国に逃れて、ここに万里の長城以南の中国は明によって統一された。

洪武帝は統一を達成すると対外進出を抑え、農村の検地や人口調査を進めて里甲制・衛所制をひき、内政の安定に力を注いだ。一方で洪武帝は功臣の粛清を強引に押し進め、宰相職の中書令を廃止して六部を皇帝に直属させる皇帝独裁体制を築き上げた(独裁の激務を補うため永楽帝のとき皇帝の諮問機関として内閣大学士が置かれ、実質上の宰相となった)。

しかし、1398年洪武帝が死ぬと跡を継いで二代皇帝となった孫の建文帝と帝の叔父である洪武帝の子たちの間に緊張が高まり、北京を支配していた洪武帝の四男燕王がついに反乱を起こした(靖難の変)。1402年、燕王は首都南京を占領して建文帝から帝位を奪い、永楽帝となった。

永楽帝の帝国拡大

永楽帝は北京に都を遷し、洪武帝の対外慎重策を改めて盛んに勢力を広げた。北方に退去した元朝勢力(明ではこれを韃靼と呼んだ)は1388年にトゴン・テムル・ハーンの王統が断絶していたが、永楽帝は北京から遠征を繰り返し、これを制圧した。東北地方では女真族を服属させて衛所制に組み込むことに成功した。南方ではベトナムを陳朝の内乱に乗じて征服した。

さらに海外の東南アジアインド洋にまで威信を広げるべく鄭和に率いらせた大艦隊を派遣し、一部はメッカ(メッカ)、アフリカ東海岸まで達する大遠征の結果、多数の国々に明との朝貢関係を結ばせた。

永楽帝の死後、モンゴルへの遠征、東南アジアへの艦隊覇権は中止され、ベトナムでは黎朝が独立した。しかし永楽帝の子洪熙帝、孫宣徳帝の二代に明は国力が充実し、最盛期と評価される。

北虜南倭の危機

しかしこのころ、モンゴル高原では西モンゴルのオイラトが勢力をつけ、モンゴルを制圧してハーンを称したオイラト族長エセンは明への攻撃を開始した。1449年、正統帝は側近の宦官の薦めでオイラトに対する親征を行ったが、皇帝自ら捕虜となる大敗北を喫した(土木の変)。

エセンはオイラトの内紛で殺され、明は危機を免れたが、のちに北京に帰還して復位した正統帝以来、歴代の皇帝は紫禁城から出ることを好まず政治からも離れる皇帝がしばしば出て、政治に支障をきたした。

16世紀に入ると倭寇が中国人の密貿易者と結びついて活発な活動を始め、中国の沿岸部を脅かすようになった(後期倭寇)。さらにモンゴルではフビライ・ハーンの子孫とされるダヤン・ハーンが即位し、オイラトに対抗してモンゴル(韃靼)の再統一を成し遂げた。オルドス地方に分封されたダヤン・ハーンの孫アルタン・ハーンは16世紀中ごろに頻繁に中国に侵入し、1550年には北京を包囲する事件を起こした(庚戌の変)。

こうしてこの時代の中国を悩ませた倭寇とモンゴルを併称して北虜南倭と呼ぶ。

明の衰亡

1572年、わずか10歳の万暦帝が即位した。即位の始めの十年間は内閣大学士張居正が政権を取り、国政の立て直しが計られたが、張居正の死後親政が始まると帝は政治を放棄し、政務は滞った。万暦帝の在位は48年に及ぶが、途中豊臣秀吉の朝鮮出兵を含む出費がかさみ、明の国政は事実上破綻した。万暦帝の死後も泰昌帝は即位後まもなく急死し、天啓帝は寵臣の宦官魏忠賢に国政を委ねた。

天啓帝の七年の治世の後、崇禎帝が即位したときには既に明朝は末期的症状をきたしていた。さらに即位後まもなく飢饉が起こり、地方で反乱が相次いだ。流賊の中から台頭した李自成は西安に拠って大順皇帝を称し、北京に迫った。1644年、李自成軍の包囲の前に崇禎帝は自殺し、ここに明は滅亡した。

同年、清が李自成を破って北京を占領し、中国支配を宣言すると、中国南部にいた明の王族と官僚は南明を建て清に抵抗したが、やがて滅ぼされた。

明の皇帝

  1. 太祖洪武帝(朱元章 在位1368年 - 1398年
  2. 建文帝(恵帝)(朱允 在位1398年 - 1402年)洪武帝の皇太子朱標の子。
  3. 世祖永楽帝(朱棣 在位1402年 - 1424年)洪武帝の子。建文帝の叔父。
  4. 仁宗洪熙帝(朱高熾 在位1424年 - 1425年)永楽帝の子。
  5. 宣宗宣徳帝(朱瞻基 在位1425年 - 1435年)洪熙帝の子。
  6. 英宗正統帝(朱祁鎮 在位1435年 - 1449年)宣徳帝の子。
  7. 代宗景泰帝(朱祁鈺 在位1449年 - 1457年)宣徳帝の子。正統帝の弟。
  8. 英宗天順帝(朱祁鎮 在位1457年 - 1464年)第六代正統帝の重祚
  9. 憲宗成化帝(朱見深 在位1464年 - 1487年)正統帝の子。
  10. 孝宗弘治帝(朱祐 在位1487年 - 1505年)成化帝の子。
  11. 武宗正徳帝(朱厚照 在位1505年 - 1521年)弘治帝の子。
  12. 世宗嘉靖帝(朱厚 在位1521年 - 1566年)成化帝の孫。正徳帝の従兄弟。
  13. 穆宗隆慶帝(朱載 在位1566年 - 1572年)嘉靖帝の子。
  14. 神宗万暦帝(朱翊鈞 在位1572年 - 1620年)隆慶帝の子。
  15. 光宗泰昌帝(朱常洛 在位1620年8月 - 9月)万暦帝の子。
  16. 熹宗天啓帝(朱由校 在位1620年 - 1627年)泰昌帝の子。
  17. 毅宗崇禎帝(朱由檢 在位1627年 - 1644年)泰昌帝の子。天啓帝の弟。

明の元号

明は、前皇帝が死去して新皇帝が即位すると翌年1月1日をもって改元する一世一元の制をひいたので、元号は各皇帝につき一つづつである(二度即位した英宗は例外)。このため、各皇帝は廟号・諡号をもって呼ばず、その皇帝の時代の元号に「帝」をつけて呼ぶことが慣例になっている。例えば、世祖・文皇帝(在位1402年7月 - 1424年7月)の代の元号は「永楽」(1403年1月 - 1424年12月)であるから「永楽帝」と呼ぶ。

  1. 洪武(1368年 - 1398年
  2. 建文(1399年 - 1402年
  3. 永楽(1403年 - 1424年
  4. 洪熙(1425年)
  5. 宣徳(1426年 - 1435年)
  6. 正統(1436年 - 1449年
  7. 景泰(1450年 - 1457年1月)
  8. 天順(1457年 - 1464年)
  9. 成化(1465年 - 1487年)
  10. 弘治(1488年 - 1505年
  11. 正徳(1506年 - 1521年
  12. 嘉靖(1522年 - 1566年
  13. 隆慶(1567年 - 1572年
  14. 万暦(1573年 - 1620年7月)
  15. 泰昌(1620年8月 - 12月)
  16. 天啓(1621年 - 1627年
  17. 崇禎(1628年 - 1644年

関連項目




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